ミーン・ストリート

マーティン・スコセッシ×ロバート・デ・ニーロの一作目、73年公開の「ミーン・ストリート」を観ました。観た理由は、ここ(http://d.hatena.ne.jp/momochixxx/20110824)に書いた通り。

ニューヨークにあるイタリア系移民の街、リトル・イタリーを舞台にした、大人になりきれない男たちの青春映画。主演はハーヴェイ・カイテル(「タクシードライバー」のメンツですね)で、デ・ニーロは、ハーヴェイ演じる主人公チャーリーの親友、ジョニー・ボーイ役。

観ていてまず思ったのは、こんなに低予算インディー映画的な趣が強いのか!ということ。今や巨匠ポジションのスコセッシだけど、この作品は「タクシードライバー」より前の初期作品で、当時はそれほど有名な監督ではなかっただろうから、当然といえば当然のことなんだけど。まだ洗練されていないザラつきの残る映像や演出は、青春群像劇であるこの作品によくあってると思う。

スコセッシのポップ/ロック音楽への愛も、もちろん強く感じられる。開始早々、ロネッツのBe My Baby、ローリング・ストーンズのTell Me~Jampin' Jack Flashと一気に流れていく飛ばしっぷりと無邪気さには思わずニンマリした。Be My Babyの最初の一音と同時にチャーリーが仰向けでベッドに倒れ込むオープニングはたいへんかっこいい。

でも、映画自体はすごく気に入ったかというとそこまでではなくて、全体にちょっとまとまりに欠けているかなと思った。前半というか、ラスト30分くらいまでは、特定の場所、特定の時代の「記録」に留まっている印象。リアルな群像劇ではあるんだけど、一つの物語としてのうねりがイマイチ足りないし、フィクションというよりドキュメンタリーのように感じることも度々。

しかし、リトル・イタリーに住む若者(といってもそこそこいい年してるんだろうけど)の、どこか満たされない気持ちや空虚さ、焦燥感なんかは鋭く捉えている。例えば、チャーリーの仲間のトニーが小さめの豹(だっけ、記憶が曖昧)とじゃれてる場面の虚しさったらない。ほんとは虎を飼いたかったけれど飼えなくて、小さめの豹で妥協している。しかも本来なら草原を走り回っている豹を小さな檻に入れて、人目につかないよう布で隠して、夜こっそりかわいがる……その様子を見る仲間たちの、何と言えばいいかわからないといった表情。あるいは、ベトナム戦争帰りの仲間が急におかしくなる場面も、当時のアメリカの暗い部分を端的に映し出している。そういう、映画全体に漂う「出口なし」な空気はよかった。

デ・ニーロの演じたジョニー・ボーイは、短気で金遣いが荒く、周囲から厄介者として嫌われている、ちょっと頭のイカれた男、というように説明されることが多いんだけど、私は彼がそんなに「嫌な奴」には思えなかった。確かに最後まで観ると、どうしようもない奴だなと思うけど、彼は「こうとしか生きられない」人間なのであって、たぶん悪気はない(そのぶん性質が悪いわけだけど)。むしろ中盤までは、主人公チャーリーのほうが見ててイライラする。定職につかず無軌道な毎日を送るのをやめ、自分の店を持ち成功したいと思う彼の姿勢はよいんだけど、そのために恋人を傷つけたりするのが、それも悪気はないとはいえ、嫌なかんじがする。「今いる環境はクソだ、一刻も早くここから脱け出して成功しなければ!」というときの人間は、焦りゆえにどうしても冷静さを失いがちになる。

そんな焦燥感に満ちたチャーリーにとって、ジョニーはリトル・イタリーの象徴のような存在なのではないかと思う。計画性のない毎日を送り、やっと決まった仕事もろくに続かないジョニーは、おそらく一生リトル・イタリーのチンピラに留まるだろう。そして彼は、何か面倒があるとすぐチャーリーを頼る。ジョニーにつきまとわれる以上、チャーリーはリトル・イタリーに囚われたまま。ジョニーとチャーリーの恋人テレサが従兄弟なのも、おそらく偶然そうだったという設定ではなく、この街の人々の繋がりの密接さ/切り難さを示している。ジョニー・ボーイは、チャーリーをリトル・イタリーというコミュニティに縛り、悪いほうにずるずると引き込んでしまう存在なのだ。だからジョニーの悪気ないダメっぷりが、チャーリーのイライラをどんどん募らせる。でも、ジョニーはジョニーで、リトル・イタリーに囚われた人間なんだと思う。先述したように、彼は一生この街のチンピラのままだろうから。だから、見てて腹がたつというよりは、かわいそうだなと思う瞬間のほうが多かった。

一番語りたいのはラストなんだけど、そうすると結末を言うことになってしまうので詳しくは書かない。ただ一つ言えるのは、ラストまで観てやっと、この作品のタイトルが「ミーン・ストリート」である意味が掴めた気がするということ。物語としてのうねりに欠ける印象だった前半に対して、後半(というか最後の30分くらい)はぐいぐい加速し、演出にもキレが増す。そうして向かえるクライマックスは、どんな内容か知っていたけれどけっこうな衝撃だった。

けっこう最近まで私は、リトル・イタリーにミーン・ストリート(Mean Streets)という名の通りがあるのだと勘違いしていたんだけど、実際には「リトル・イタリー=Mean Streets(醜い街)」ということらしい(よく見りゃ複数系だしね)。映画は最後、リトル・イタリーの人々の様子を映して終わる。チャーリーをはじめとする若者たちの足掻きは、結局この街の一風景、一晩の出来事にすぎなかったということだろう。それがわかったとき、たぶん青春は終わる。俺たちはリトル・イタリーの一部にすぎない。そしてこれがリトル・イタリー、醜い街である、と。

しかし彼らの足掻きが完全に無駄で、リトル・イタリーに出口はないのかというと、そんなこともないのだと思う。というのも、映画の冒頭にこんな言葉がある。「我々は通りや家で罪を償う、それ以外はまやかしである」。教会の中で祈るだけでは償いにはならない。日々の行動から少しずつ始めなくては意味がない。でもそれは難しいことじゃないし、誰にでもいつからでもできることだ。この言葉は、教会での祈りなんて嘘でしかないととることもできる。しかし裏を返せば、それは希望にもなりうるんじゃないかと思う。

ミーン・ストリート [DVD]

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