イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ

だいぶ映画の感想が溜まっていますが、少しずつ書いて消化していきましょう。今日は世界的に有名なグラフィティアーティスト、バンクシーの初監督作「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」。グラフィティアートシーンについてのドキュメンタリーです。以下、内容にはけっこう深く触れているのでご注意を。

バンクシーのことはよく知らなくて、グラフィティアートにもまったく明るくないので、当初は観る予定ではなかったんだけど、「英国的」で「パンク」な映画と聞いて、それなら観ないわけにはいかないな!ってことで観賞。確かにこれは英国的皮肉が効いてて、パンクムーブメントを彷彿とさせるような映画だ。いや実際、映画の中でグラフィティアートのことを「パンクムーブメント以来のカウンターカルチャーの大きな波」みたいに言ってて、作る側も多少意識していたのではないかと思う。


ロサンゼルス在住で古着屋を営むフランス人、ティエリー・グエッタは撮影マニア。いつもビデオカメラを手離さず、目の前のことは何でも撮影する。彼はいとこがスペース・インベーダーと名乗るグラフィティアーティストだと知り、アーティストたちがストリートに作品を描く様子を撮影しはじめる。そして、すっかりグラフィティアートの世界にのめり込んだティエリーは、ついにシーンの中心的人物バンクシーとの邂逅を果たす——


アートに関してはまったくの素人であり、撮影中毒の普通のおっちゃんだったティエリーは、この後ミスター・ブレインウォッシュ(MBW)の名でグラフィティアーティストの仲間入りをする。作品は何らオリジナリティがなく、わかりやすいイメージを主義主張なしに切り貼りしているだけのものであるが、バンクシーやその他有名なグラフィティアーティストとの関係を武器に、メディアを利用して一躍アーティストとしての成功を手に入れてしまう。アーティストたちが夜な夜な警察の目を盗みながらストリートにアートを生み出していったスリリングでエキサイティングな時代を記録した前半から、MBWの登場によって上辺だけのアートが大量生産・大量消費されていく後半への切り替えがたいへん鮮やかで、初監督作にしてこの構成力の高さには舌を巻く。

この映画は、MBWという実力を伴わないなんちゃってアーティストが成功を収めていく様を見せることで、「アートの価値って何だ?」「アンタたち本当にわかっているのか?」という問いを投げかけるんだけれども、そうした「アートとは」を問い直す作品としてだけでなく純粋に一つのムーブメントの隆盛と死を描いた「物語」としても楽しむことができる。

これは表向きドキュメンタリー作品ということになっているが、本当はすべてバンクシーが仕掛けた作り話だという説も強く、ドキュメンタリーなのかモキュメンタリーなのかが様々な場で語られている。フェイクか否かを見極めることは別にそれほど重要でないとは思うけれど、一応自分の考えを書くと、私はこれは「事実」を「物語」として意図的に編集したものだと思う。そして編集の際にはMBWも一枚噛んでいるのではないかと推測するのだが、どうだろう。つまりMBW自身も、自分がアーティストとして実力以上に評価されているのをわかりながら、それを自ら笑いに転換しているのではないだろうか。

確かにMBWはアートの才能はないかもしれないし、努力もしていないかもしれないが、ディズニーランドの一件からもわかるようにグラフィティアートへの愛情はあるのだと思う。グラフィティアートがまだ完全なアンダーグラウンドのカルチャーでだった時代に、ストリートに繰り出すスリルと楽しさに酔いしれていたのも間違いない。MBWだけでなく、バンクシーもその他のアーティストたちも、皆あの時代の、ムーブメント前夜の空気を愛していたのである。しかし、かつては完成した翌日に落書きとして清掃されていた作品群が、額に入れられ、オークションで高値で取り引きされるようになった今、グラフィティアートがあの時代のようにカウンターカルチャーとしての役割を担うことは不可能だ。グラフィティアートは市場で売買されるものになってしまったのである。これはムーブメントとしての完全な死と言っていいだろう。

このようにグラフィティアートがムーブメントとしての死を迎えたのは、MBWのようなメッセージのない作家のせいなのだろうか。いや、それは違うだろう。グラフィティアートが大きな動きとして注目を浴びる中でコマシャーリズムに飲み込まれ、薄っぺらな作品を量産し、またそれを価値あるものとして消費する型ができてしまったのだ。ここには明確な悪者などいない。この映画は意地悪なユーモアには満ちているが、誰かを批判することは決してしないのである。

バンクシー、MBW、そしてあの時代を愛したすべての人間が、形は違えど、このコマシャーリズムの波に飲み込まれてしまった存在だ。もうあの頃のように、スプレーやペンキ片手に、夜のストリートをアートの世界に変えることはできない。この映画はそうしたグラフィティアートシーンの最盛から終焉までの物語を、MBW周辺の出来事を例にとって、描いてみせたものだと思う。だから、MBWだけを笑い者にして、バンクシーは高みから見下ろしている、そういうような嫌らしさは感じなかった。もちろん、バンクシーは自分のアートに対する自信を持っているだろうし、MBW周辺の騒ぎをバカにする気持ちもあるだろうけど、でもあの騒ぎの中心に自分も間違いなくいたのだという意識を彼は持っていると思う。事実、MBWが初の個展であれほど注目を浴びたのは、バンクシーが友達のよしみで書いた推薦文があったからだ。

映画では、度々バンクシーをグラフィティアートの中心的存在として紹介するナレーションや彼を称賛するニュース映像が挟まれる。彼はグラフィティアートがカウンターカルチャーとして死んでいく姿を目にしながら、シーンの中心から逃れることができなかったのだ。彼の作品はグラフィティアートの作品群の中でもとりわけ高い値段がつけられているだろう。それならば、グラフィティアートという一つのムーブメントが迎えた結末を、その中心にいた自分も含めて、笑いにしてしまおうではないか。そのコメディアンとしての気概がめちゃくちゃかっこいいと私は思う。そして同じような気概をMBWも持っているのではないかなーと思っているというか思いたいのだけれど如何なものか。

この映画でおもしろかったところをもう一つ。それは作品の制作背景や個展の準備作業の裏側を見せることで、徹底してMBWがダメダメのアーティストに見えるようにしていることだ。雑誌やテレビのインタビューに答えてばかりで、まったく作業をしない。実際の作業は雇ったスタッフに任せきり。そのわりに「俺がリーダーだ」と態度がデカい。挙げ句の果てに「絵は適当に飾っておいて」と言い出す。そんな彼を見れば、誰だって「こんなのはアートじゃないよ」と言うだろう。しかし、ただ作品だけを目の前に出されたら、あるいは彼が実際に作品に手をかけるところをたっぷり見させられた後に作品を出されたら、あんなに爆笑できただろうか。まあ、よく見れば雑貨屋のポストカードみたいなのだが、私はまったく自信がない。

結局のところ、私たちがMBWの作品のペラさや彼を称賛する人々・メディアを笑えるのは、裏の事情を知っているからではないだろうか。作品だけを示されて、これはアートじゃないと言い切れるだろうか。じゃあ作品の価値って何なのだろう。こうやって裏側の様子を見なければ判断しかねるものなのか。私たちはアートが何であるか知っているのか。「評価する」とはどういうことか。

ロンドンパンクの代表的なバンド、Sex Pistolsのボーカル、ジョニー・ロットンが、あのムーブメントにおいて一番言いたかったのは何だっただろうか。私は「自分の頭で考え行動しろ」ではないかと思う。これと同じことをバンクシーも言っているのではないだろうか。この映画を観て、何を感じるか。MBWのアートをどう思うか、バンクシーのアートをどう思うか。それは個々人に託されている。


最後に、バンクシーはこの映画を通してグラフィティアートがカウンターカルチャーとしての死を迎えたということを描いているのだと思うけれど、同時にグラフィティアートというものが完全に終わったわけではないということも(はっきりとではないけど)言っていると思う。それはあのアメグラエンディングからもわかるだろう。グラフィティアートの世界で表現を続けるスペース・インベーダたちの現在が少しだけ語られている。ただ、あの時代のエキサイティングさはもう戻ってこない。だからこそ、オープニングで流れるのと同じ"Tonight The Streets Are Ours(今夜この街は僕らのもの)"がラストでは何とも皮肉っぽく、哀しく響くのである。バンクシーはあのフードの奥でどんな表情をしているのだろう。「バンクシーは意地悪だ」という言葉を事前に何度も見かけて観賞したからか、私には彼は案外真面目なお兄さんに見えましたよ。