クロニクル(激しくネタバレニクル)

とってもとってもお久しぶりです。ここしばらく、もうこのブログ使わなくなっちゃうかもなあと思っていたんですが、今日はちょっと文章にしてまとめたいことがあるのでひょっこり出てきました。


というわけで限定的ながらもついに日本公開された『クロニクル』。見てまいりしました。もういろんなところで語られている通り、この映画の魅力は視点とその変化。冒頭でいとこのマットが言うように、アンドリューが日常を記録すべく回し始めたビデオカメラは彼と世界とを隔絶するバリアとして登場します。アンドリューはカメラという壁を隔てて小さな除き穴から世界を見ることしかできない。そして彼は決して撮られる側/見られる側ではない。だからアンドリューは最初ほとんど映像に映ることがなく、カメラは彼の目として、小さな防御壁として機能します。

しかし、マットと彼の友人スティーヴとともに洞窟での超自然体験を経て超能力を得ると、アンドリューの世界は変わります。友ができ、徐々に被写体となることが多くなる。そしてタレントショー後のパーティーでマットが「いつから俺は撮る側にまわったんだ?」と言ったシーンに象徴的なように、カメラはアンドリューの手を離れ、彼は撮られる側/見られる側へと移っていきます。ほんの少しだけ。

それまで世界から相手にされることがなく常に観察者であったアンドリューは見られること・注目されることの愉悦を知ります。ここでの「見られること」は「認められること」と同義。典型的なルーザー街道を行っていたアンドリューは初めて自分は特別だと自尊心を得ます。こうした学園のルーザーが一躍人気者にというストーリーは青春劇の定番ですが、この映画はその定番の学園ストーリーを超能力やPOVというガジェットを巧みに使って鮮やかに、濃密に、そして迅速に(話を進める手捌きのスムーズさがすごい!)描き出していて素晴らしい。

こうして人気者になったアンドリューだけれども、この成功はすぐに終わりを迎えます。赤毛の女の子との顛末をきっかけに彼は友を失い、自分を撮ってくれる人を失います。そして周囲の彼に対する見方は激変し、再びバカにされ、貶される日々に。けれども、「自分は特別だ」という意識と「こう見られたい自分」がすでにできあがってしまったアンドリューはもうこの状況に甘んじてはいられない。結局アンドリューが求めていたのは「見られること」ではなくて「自分が見られたいように見られること」と「自分は特別だと認められること」だったのだと思います。しかし世界は彼が見てほしいように彼を見てくれない。だから彼は自分で自分を撮り始める。

このことを考えると、映画の後半でやたらとアンドリューのカメラワークが巧く、かっこよくなっているのがもの凄く切ない。彼は自分がいかにかっこよく見えるかを考え、きちんと演出しているわけです。臨場感やリアリティが売りのPOVから何かを強調するために意図的に撮られた映像へ。この転換があまりに鮮やかで、かつ痛々しい。

ついに怒りが爆発し街を破壊し始めたアンドリューは世界中から注目を浴びます。しかしかき集められた映像の断片たちは、彼を彼の理想通りには映していないのでした。

ビデオカメラが大きな役割を果たすこの映画のラストで、マットがカメラを置いていくというのは象徴的であるように思います。個人と世界とを隔て、また見る者と見られる者を隔てるカメラは、青春期の屈託が詰め込まれた小さな要塞と言えるかもしれません。マットはこのカメラに別れを告げますが、これによってアンドリューとマットとスティーヴの青春は本当に終わりを告げるのではないでしょうか。また、カメラがアンドリューの目であるならば、最後にアンドリューが見る景色は彼が本当に望んでいた世界であり、あのカメラに愛を込めたマットの小さな祈りにぐっときてしまうのでした。