ツリー・オブ・ライフ(今度は感想)

こないだはこんなもの(http://d.hatena.ne.jp/momochixxx/20110820)を書いたけど、今回は感想です。とはいえ、もちろんここでの考察を踏まえた上でのものになります。そんでさらに自分の解釈を付け加えていくかんじ。以下、未見の方はご注意。

まず率直に、この映画どうだった?と聞かれれば、いろいろな意味でおもしろかったけど好きではないです、というのが正直なところ。知識は全然ないけど宗教の話はけっこう好きで、前期は聖書の授業をとってたくらいなので、「宗教よくわかんね……」とはならず、むしろ「ほうほう……なるほどね」と興味深く観ることができたけど、でもやっぱり、最初と最後のイメージ映像、心象風景的なやつは長すぎると思うし、ラスト20分くらいはちょっと退屈に感じてしまった。そもそも、「アメリカのキリスト教徒の白人男性」が神との対話(ではないか、語りかけ?)を通して人生を見つめ直すみたいな話を今やるのは、すごく難しいことだと思う。でも、パルムドール獲ったりしてけっこう評価されているということは、あの感覚ってそれなりに共有されているものなのだろうか。

映画のそこかしこに宗教的なイメージが見られるので、日本人にはなかなか理解しがたいところも多いのだけれど、根本の部分はすごく普遍的だと思う。思春期の人間なら誰もが体験するような話。それをごくパーソナルな形で、宗教的な要素を絡ませながら描いてみせるという。

だから、(おそらく)50年代のアメリカ郊外を舞台にした少年時代のドラマパートは、共感(というか、思春期ってこういうものだよなー、と感じる)するところもいろいろあっておもしろい。あくまで「主人公ジャックにとっての」思い出なので、実際の出来事・経験とは少し違っていたりするんだろうけど、ジャック少年の感情に関してはリアルに描かれている。簡単に言ってしまえば、エディプス・コンプレックスの話、だろうか。母親に性愛的な感情を抱き、父親を憎む。たぶんそれは、父になりたい/乗り越えたいことの裏返しで、畏敬の念と憧れを感じているからこそ父を嫌い、母を求めるのだと思う。父が出張で不在のときのジャック少年の振る舞いが、あんなに嫌っていたはずの父に似ているのには少し笑ってしまうくらい。「人間は嫌っていたものに気がつくとなっているんだなあ」なんてよく聞く話だけど、ここで描かれているのはそれくらい、悪く言ってしまえば「ありきたり」なくらい、普遍的なことなのだ。ただ、この映画の中では、父は「神」として、母は「聖母」として描かれる。そういうふうにキリスト教的な感覚が盛り込まれてはいるけれど、基本はとてもオーソドックスな思春期のお話。

それと、ドラマパートは役者陣が素晴らしい。父役のブラピは、どの作品でも安定した仕事ぶりなので心配はまったくしていなかったけれど、期待以上によかった。「強きアメリカの父」像を見事に造形しつつ、当時のアメリカ郊外の憂鬱な部分も同時に感じさせる。これまで神だと思っていた父は実は神ではなかった、とジャック少年が気づくまでが話の大筋なので、必然的に父親が一番深みと広がりのあるキャラクターになるね。

子役の演技の引き出し方もすごくうまいと思った。長男役の子は目が印象的。表情で語れるのがすごい。次男役の子は笑うとブラピにとても似ているんだけど、彼の屈託のない笑顔と長男くんの瞳の奥で何かが燃えているようなかたい表情との対比がいい。三男の影の薄さは何を意味しているのか最後までわからずで、この映画はこういうところに謎を残していくからわかりづらいのだよなあと思った。赤ちゃんの反応の引き出し方も含め、テレンス・マリック監督は演技の演出にとても長けている人なんじゃないかと思うんだけど、他の作品ではどうだろう。

そして事前に画像はいくつも見ていたけれど演技は初めて見た、母役のジェシカ・チャステイン。この作品の一番の見所は間違いなく彼女でしょう。思春期の男子の頭の中にある「聖母」としての母、という非常に危うい役でありながら、凛とした美しさなのが素晴らしい。性的なかんじも漂わせはするんだけど、透明感のあるセクシーさで品がある。ジェシカさんファッションショーかというくらいにころころと着ているワンピースを変えるので、それを見るだけでも楽しい。すっと伸びた手足の美しいことといったら。

大人ジャックを演じたショーン・ペンは、自分でも「よくわからなかった」と言ってるように、どう演技すればよいのか定まっていないかんじだった。彼は一人ドラマパートから外れて断片的なシーンの撮影ばかりだったから、それも無理はないと思う。結局ショーン・ペンのパートはよくわからないままだし。

概ね楽しんだドラマパートだけど、最後の15分くらいになって急に息苦しくなった。というのは、画面に罪の意識というか業の意識みたいなものが滲み出ているように感じたから。ここで言う「罪」は、具体的な行為・経験じゃなくて、「人間は人間であるだけで罪深い」という意味での、生まれながらにして抱えている罪。つまり原罪みたいなもの。思えば思春期というのは、人間の「罪深き生き物」としての形が出来あがる時期かもしれない。完全な子供だった頃は、親の保護下にあって「与えられる」だけの、いわば知恵の木の実を食べる前のアダムとイブの状態。それが思春期になると、父(神)に反発し、性に目覚める。ジャックにはどこか、「自分の『罪』はあの少年時代に作られた」っていう思いがあるように思う。そしてあの1時間半近いドラマパートは、その少年時代の記憶を神に前で告白(じゃなくてもっと的確な表現がほしいところだが思いつかない)し、罪を洗い流そうとしている(自分の中で折り合いをつける、と言い換えられるかも)のではないか。そう思った途端に、観ているのがしんどくなった。ここまで「個人的」な話を、このスケールで長時間やるのは……。もう少し外界との関わりや他者の感覚があるだけでだいぶ違うと思うのだけど、ああまで「自分の内」で考え込まれてしまうと、ついていけなくなるというか。

公開直後、鑑賞者の度肝を抜いた「NHK:地球46億年の歴史」みたいな映像には確かに驚いたが、あの地球と生命の生まれ方って聖書の記述と違うわけで。要するに、キリスト教的世界観と近代科学の見方を融合して、「生命は自発的(?)に生まれたけれど、そのすべてに神の御手は触れているよ」ということをやりたかったのかなと思う。そうすると少し汎神論的だし、事実自然の風景がすごく印象的に撮影されていた。地球上の生命、自然、すべてのものに神が宿っているのなら、私の中にも神はいて、私は世界と繋がっていて、さすればこその、あの恐竜ってことなのでしょうか。それでもやっぱりよくわからないし、CGも微妙ではあった。しかし、あのナショナルジオグラフィック部分以外の映像はたいへん美しかった。螺旋形のステンドグラスのカット、大好きなんだよなあ。地を這うカメラワークもゾワリとくるものがあった。

最後まで観て思ったのは、誰もが経験する思春期の話をここまでパーソナルな罪の告白として描くって、しかもあれだけのスケールで描くってすげえ、ということ。ただそれ故に好きな映画とは言えないのだよなあ。