キック・アス(マーク・ミラー、ジョン・ロミータ・Jr.)

ついに『キック・アス』原作を読みました(グダグタ言う前に読めや、という話だな)。

キック・アス (ShoPro Books)

キック・アス (ShoPro Books)

「原作」とは言うけれども、このコミックとマシュー・ヴォーンの映画はプロットがほぼ同じなものの、まったくの別物という印象だなあ。「冴えないアメコミオタクの少年」という主人公のキャラクター認識からして違うというか。そもそも、コミックと映画は同時進行で作られ、完成したのは映画のほうが先というくらいだから、コミックは映画の「原作」というより映画の「原案」と言ったほうがいいかもしれない。たぶんマシューも、映画ではコミックと違うことをやろうと思って作っていたのだと思う。

読む前からいろいろ情報は入っていて、だいたいの感想が「現実の非情さや残酷さを容赦なく描いている」というかんじだったので、かなり心構えができていたらしく、案外すんなりと読めた。確かに、キック・アスこと主人公のデイブが置かれる状況は悲惨だし、結局ヒーローになって体を張ってみたところで(現世的に)得られるものは何一つない。現実はこんなものだ――そんな寄る辺のない物語がここには描かれている。でも、ここには同時に作り手の主人公に対する呆れと愛情が入り混じった、「バカなことをしているかもしれないけれど、でもどうしようもなく愛おしいものを見つめる眼差し」もあって、だから語り口の冷酷さというのはほとんど感じなかった。作者のマーク・ミラーが限りなく自伝的な作品だと語っているように、デイブはミラーの少年時代を反映したものなのだろう。ただ実際にヒーローになってみたかどうかが違うだけで。容赦のない描写が多いながらも露悪的にはならず、真摯さを感じさせるのは、作り手の主人公に対するかつての自分(と今もどこかにいる似たような状況にいる少年たち)を見る眼差しがあったからなんだと思う。

デイブ少年は、ただアメコミに出てくるヒーローに憧れているわけではなくて、世の中に対して不満や憤りを感じていて、そうした負のエネルギーが彼を「ヒーロー」に向かわせる力にもなっている。曰く、ヒーローになるのに必要なのは「100%の絶望と孤独」だけなのだ、と。デイブはその「100%の絶望と孤独」だけを手に、ヒーローの魂を掴み取ろうとする。その過程が、実は非常に淡々と描かれているのが、このコミックの特徴だと思う。凄まじい暴力描写で倫理コードのギリギリをいきながらも、本作には「うちらはセンセーショナルなことをやってるんですよー!」という態度を感じない。アメコミはまったく読んだことがないからその文法もよく知らないんだけれど、でもこの語り口はシンプルで奇を衒ったりしたようなものではないと思う。そして、作中では「ヒーローとは何であるか」「ヒーローになるにはどうすべきか」という問いかけは直接的にはさほどなされない。ひたすらにデイブ少年が自警活動を始めたことで経験した悲惨すぎる状況を描いていく。しかもあれほどの経験をしながら、彼は結局何も手に入れることができないし、より惨めな目に遭ったかもしれない。それでも、何も得ることができなくても、彼の「100%の絶望と孤独」は最後確かにヒーローの魂へと変貌している。何より、一連の事件の後、デイブが語る「負け犬だった僕でも、半年間ブームの中心になったんだ」という言葉にシニカルさを感じさせないのがすごいと思う。ほんの小さな勲章のようなものかもしれないけれど、彼があの経験から掴みとった唯一のものを、丸ごと肯定はしないんけれども露悪なく真っ直ぐに描く。これにはやっぱりぐっときたのであった。


本当はコミック読んでみて新たにマシュー・ヴォーンについて思ったことを書こうかと思ったんだけど、長くなってしまうから今日はとりあえずいいや。「夏休みにマシュー・ヴォーンについて長文書きたい」って言って結局書かずに夏休みが終わったけど(相変わらずのアレ具合)、これについては別のところでちょっと書いたりしていて、ただそこでも書ききれないことがいっぱいあるし、本気でまとめようと思ったらかなりしんどい作業になるので、これから小出ししていきます。いつかまとめて長文で……とか思ってると書けなくなっていくだけだ。