猿の惑星:創世記(ジェネシス)

またもや出ました、今年流行りの「:」映画。

おもしろかった!すっごいおもしろかったけど、なぜか何度も噴きそうになった!三本の矢!

(内容に触れるというか、話のけっこう後ろのことまで言及するかもしれない)

元々の「猿の惑星」シリーズについては知識として知っている程度で、実際の作品はどれも断片的にしか見たことがなかったんだけども、今回はやたらと評価が高いし、ビギンズものであれば旧作を知らなくても楽しめるかなってことで観賞。実際のところ、旧作を見ていなくてもわかるようなシリーズへの目配せがいろいろあった。ニュース映像や新聞の見出しで「お?」と思ったところはやっぱり……だったのだな。

歩いたり走ったりと平面的に動く人間に対して(跳ぶっつってもせいぜい数十センチだし)、猿は跳ね回り、木に登り、うんていの要領で高いところを移動し……と立体的に動く。その身体能力の高さや(人間視点でなく)彼らから見える風景を映像でしっかり捉えているところが素晴らしい。全編に渡って、縦横無尽に空間を使いきった躍動感溢れるアクションがいっぱい。「猿だったらこんなふうに世界を見る、感じる」というのを映像として体験させてくれる。まだ子どもの頃のシーザーが家の中を移動するシーンや自然公園の木に登るシーンは、観ているこちらも楽しいし、改めてその高い身体能力に感服する。要は単純に「猿すげー!かっけー!」とテンションが上がるのだな。これがこの作品でとても重要なポイントだと思う。

それと、猿の身体能力、目線を映像化するというのとは少しずれた話になるのだけれど、本作はとても画の見せ方がうまい。何かしらのアップからカメラ(CGが多いのでカメラ撮影してないとこも多々あるとは思うが)が下がって引きの画になるところが何回かあるのだが、そのときの視界がクリアに気持ちよく開けるかんじがたまらない。シーザーが木のてっぺんから都市を臨むラストシーンの清々しさがそのいい例だろう。

ただまあ、出てくる猿さんたち、特にシーザーがあまりにもキリリとかっこいいので度々笑ってしまった。なんなんだ、あのドヤ顔は。檻の鍵を手に入れたときの表情、猿たちを指揮する仕草など、その一挙手一投足がどれもビシッときまっている。私は映画でかっこいい男性を見るとすぐに「イケメンはあはあ」というような人間だけれども、まさか猿のことをイケメン!と思う日がくるとは思わなんだ。まさに「シーザー△」というやつ。シーザーが猿と人間の狭間で葛藤しながら、次第に保護施設の猿たちの中で成り上がっていくまでも巧みに描かれており、定番の刑務所ものを猿でやることで新しい楽しさが生み出されている。

他の猿たちもみな個性的で、それぞれに見せ場がある。薬の作用なしにあれだけの知能を持ってるってすごくね!?なオランウータン先輩や強面だけど義理人情に厚いゴリラ先輩など。特に、あのゴリラ先輩が身を挺してシーザーを守る場面はじんわりと目頭が熱く……あのシーンは観ている人が各々で脳内字幕をつけて楽しむところだろう。「外の景色見させてくれて、ありがとな……」なのか「お前と過ごした日々、なかなか悪くなかったぜ……」なのか。猿たちがズラリと並ぶカットはどれも構図がきまりすぎなので、笑いながらそのかっこよさに興奮が増す。あんなにキメキメの画の連続ってそうそう見られるものではないと思う。

そして、先にちょっと書いたけれども、この「猿たちがとにかくかっこいい!」ということが、この映画においてたいへん重要なのではなかろうか。本作は公開前から「泣ける『猿の惑星』」(という宣伝文句がひどい)ということで話題になっていたが、実際には「泣ける」というより「うおー!!と拳を突き上げる」のほうが正しいだろうと言われてきたのだけれども、じゃあなぜ猿たちが人間社会を破壊していく映画がそんなにも興奮を呼ぶのかといえば、それは猿を「かっこいい存在」として描いたからなのだと思う。人間の利益のために実験台にされてきた猿たちが反乱を起こすというプロットであれば、人間を冷酷な支配者として描き、虐げられる猿たちに同情を抱かせるようにもできただろう。しかし本作における猿たちは、可哀想な存在というより、それぞれに矜持を持ち義理堅い者として描かれているように思うし、特に主人公のシーザーはカリスマ性に溢れた兄貴のような描かれ方をされている。一方で人間のキャラクターといえば、マルフォイことトム・フェルトンが演じた施設の檻の管理人(素晴らしい小物感!)や研究所の所長など、わかりやすい悪人もいるのだが、彼らも「冷酷非道」というより、単純な思考やちっぽけなプライドの持ち主で間抜けな奴として描かれているし、人間は全体的に「愚鈍な存在」とされているように思う。それはジェームズ・フランコ演じる表向きの主人公ウィルだってそうなのだ。職業倫理はガッタガタだし、自らの勝手な行いが人類の危機を招いているにも拘わらず、恐らくはそれを自覚もしていない。なんとなくぼんやりとした好青年のように最初から最後まで映っている。

そんな愚鈍な人間たちから優れた身体能力と知能を持った猿たちが独立する。そこには隷属状態からの解放のみならず、古い世界を壊し新しい世界を作っていく革新性とその快感が存在する。先ほど子ども時代のシーザーが家の中や自然公園を縦横無尽に動き回るシーンについて言及したけれども、そうしたシーンを見ていると、やはりシーザーには人間の作った世界など窮屈だし、彼の高い能力にまったく見合っていないと思えてくる。そのように事前に彼の能力の高さをしっかりと見せられているからこそ、その後の彼の革命にマーク・ザッカーバーグフェイスブックで世界を塗り替えたときのようなかっこよさ、気持ちよさを感じることができる。ということで、私はこの映画に「ソーシャル・ネットワーク」を少し感じた。シーザーはザッカーバーグばりの異端児。さすがに猿×刑務所もの×「ソーシャル・ネットワーク」!とは言えないけれど、エッセンスはあると思う。

このように猿たちをかっこよく描き、その革命を観ている側が後押ししたくなるような演出を施すことで、アドレナリン全開の動物パニックに仕上げる、このことが徹底されているため、人間パートはだいぶペラペラしているし、この題材であれば切り込めたであろう問題(科学と倫理とか支配被支配とか)にほとんど手がつけられていないという点に、描き足りなさを感じないでもないが、少なくとも上映時間106分の間はそんなことを考えることもなく、たくさんの興奮を与えてくれる本作は最高のエンターテイメントだと思う。そしてそこに大きく貢献したのは、シーザーというカリスマチンパンジーを生み出したアンディ・サーキスの演技とモーションキャプチャーの技術だろう。私は技術的なことには全然詳しくないし、このモーションキャプチャーというのも実際にどんな仕組みになっているのか理解しているわけではないんだけども、やはり本作を観ると、「CGが役者の演技だなんて」というようなことはもう絶対言えないなあと実感する。細かな心の動きまで捉えた猿の表情の精巧さには本当に驚いた。例のゴリラ先輩のシーンで脳内字幕がつけられるのも、そうした役者の演技と技術の自然な融合のおかげなのだし。

監督のルパート・ワイアットはキャリアは短いながら抜群の運動神経を備えていると思う。続編……作るのかどうかわからないが、もし監督変わらずに作るのであれば、恐らくは人間との対峙がより重要になり、猿たちの社会を描くことで人間社会をも描くことが必要になってくるであろう続編で、どうアクションを起こしていくかに期待大なのである。