ジュリアス・シーザー(ウィリアム・シェイクスピア)

英米文学を学ぶ人間としてやはりシェイクスピアは読んでおかないとということで、今年中の読破を目指してシェイクスピア全作品マラソンスタートさせました。授業で扱った『ハムレット』に続いて2作目は『ジュリアス・シーザー』です。

ジュリアス・シーザー (光文社古典新訳文庫)

ジュリアス・シーザー (光文社古典新訳文庫)

まどろっこしくて主人公の心情が読みとりづらかった『ハムレット』(それがこの作品の魅力でもあるのだが)よりも、私はやはりこのわかりやすさが好きだなあ。展開が大きくはっきりしていて、どの場面も臨場感に溢れてる。読んでいて単純に楽しい。

訳者である安西徹雄氏の解題がたいへん読み応えあった。本作においてローマの民衆は次々に支持する政治家を替えていく(ポンペイ→シーザー→ブルータス→アントニー)のだけれど、それは政治家の演技にすぐ騙される民衆の愚かしさを表しているのではなくて、「根本的な価値の不確定性、恣意性」を示しているという、この指摘には「おお!」となった。何かしらの事実に対して意味を与え、形を与えていくのは人間の恣意なのであって、正義というのは絶対的なものではない。世界は刻々と変化しており、明日何が起こるかわからない。

本作には、エリザベス1世が高齢でありながら後継者を指名しないために、彼女の死後ローマのように内乱が起こるのではないかという当時のイングランド国民が抱いていた心配を反映していると言われているそうなのだが、例えばこの「不確定な価値、恣意的な意味解釈」にそうした不安を見ることができるかもしれない。

そしてその不確定さや恣意性というのを、群衆という目に見える形で劇的に表現しているところが素晴らしいですね。特に、ブルータスの演説からアントニーの演説でわずか数ページの間に民衆の支持がガラッと替わる場面は、実際の演劇で見たらとても盛り上がるだろう。私は本作の、こういうふうに大きく舵をきってくるところが好き。

でも『ハムレット』との共通点のようなものを感じるところもあった。本作は『ジュリアス・シーザー』というタイトルだけれども、実質的主人公はシーザーを暗殺したブルータスである。己の中の矛盾に悩み、正義のためにシーザーを殺すべきか葛藤する彼の姿が描かれる。外面的な動きよりも内面の描写に重きを置いている点は、『ハムレット』と同じと言ってもいいと思う。ブルータスだけでなく、仲間のキャシアスや敵のアントニーの内面も深く描かれているため、単純に歴史的出来事を追っていくだけの史劇にはなっておらず、立体的なドラマになっていておもしろい。このあたりに関しても解題で詳しく書かれてます。

また、シーザー自身は物語において何か特別なことをするわけではなく、早々に退場してしまうんだけれど、この物語を動かすきっかけとなっているのは間違いなくシーザーなわけで、これはある意味シーザーの影がずっと付きまとっている物語と言える。『ハムレット』も、父王亡き後でさえその偉大な像に心囚われている男の話で、「亡きものの影が付きまとっている物語」だと思うので、これも共通点の一つかなと。実際、『ジュリアス・シーザー』ではシーザーの、『ハムレット』では父王の亡霊が出てくる。果たす役割は違うが、どちらも亡きものの影が物語を覆っている印象を受ける。そういえば『ハムレット』というのは、主人公の王子の名であると同時に、父王の名でもあるのだった。


作品と関係ないけど、これ読んで、やっぱり内乱期のローマ史おもしろいなあと思った。この時代の政治家だと、カエサル(シーザー)よりもアントニウスアントニー)よりも、断然オクタウィアヌスが好きというのは奇特だろうか。確かにオクタウィアヌスは、カエサルほどカリスマ性や知力があるわけでもないし、軍才にいたってはさっぱりだったけれど、バランス感覚に長けた人だったのだと思うのよね。『ジュリアス・シーザー』でのオクタウィアヌス、絶妙にムカつく若造でよかった。