インストール(綿矢りさ)

根っからの西洋かぶれミーハー女子、百だって時には日本の小説も読みます!ってことで(?)綿矢りさの「インストール」を読んだ。

インストール (河出文庫)

インストール (河出文庫)

ああ痛い。これは痛い。瑞々しくって痛い。

何が痛いって、主人公が私と同類すぎる。

学校には真面目に通って、今のところ皆勤。作中に詳しい描写はないけれど、おそらくルックスはまあそこそこで、地味目の普通の女子高生。きっと成績もそれなり。でも、私はまわりの子達とは違うとどこかで思っていて、かといって何か特別なことをしているわけではなく、大物になるというやたらとデカイ野望とは裏腹に、何者にもなれないという漠然とした不安を抱いている。それが本作の主人公、朝子。

ああこれは、読んでて終始苦笑いだよ。郊外のマンション育ち、特にやりたいことも定まっていないし、何か一つ極めていることもない。ぼんやりとぬくぬくと、何かに挑戦したことも、苦難を乗り越えたこともなく、それなりにいろんな人に守られ、いろんなものを与えられながら生きてきた。そのくせ、自分はちょっと特別だとほんのり思っている。いや、「それゆえ」思っているのだろうか。何にせよ、ここにいるのは間違いなく私と同種の人間。だから、朝子がふとしたことから学校生活をドロップアウトしてしまうのも、部屋のものすべてをおもむろに捨ててしまうのも、実際にはそんなことしたことないけれど、すごくよくわかる。ゴミ捨て場のコンクリに寝そべるあの感覚も、一つの生命体としてのマンションの息づかいを感じる瞬間も、すべて私の知っていること。

蹴りたい背中」の主人公もまさしく私だった。さすがにあそこまで一人ぼっちではなかったけれど、まわりのことばっかりよく見えていて自分のことはちゃんと見えているのか甚だ怪しいという、主人公の外にばかり研ぎ澄まされすぎた感覚は、まさしく2、3年前まで私が持っていたもので、読んでてイタタタ……となった。過去の自分の姿だからこそ、その痛さも倍増なのだ。「インストール」もそう。朝子は受験生。しかも時期としては5月だから、ちょうど一年前の自分。なんて絶妙なタイミングで読んだんだろう。この二作は私にとって、あまりにパーソナルすぎる。綿矢さん、私と同種の人間なのか。

まあ、そんなパーソナルな感覚を天才的なまでにヴィヴィッドに、これ以上ないというほど的確に切り取ってしまえるという点で、綿矢さんは私なんかとはまったく違う人なんだけれど。彼女の感覚の描写の鋭さは読んでいて震えるレベルだ。さすがに「蹴りたい背中」の「さびしさは鳴る」に匹敵する表現はないけれど、本作でも彼女の研ぎ澄まされた言語感覚は光っている。特に、風と風によってはためいたり飛ばされたりするものの描写が瑞々しくて素晴らしい。その言葉の切れ味の鋭さで、私の心を抉る。

琴線の震えをここまで鮮やかに、完璧に描ける人はそういない。つまりこれが「天才」というやつなんだと思う。こんな表現を一生のうち一つでも書けたら何の悔いもなく死ねる、そう思える表現が、わずか100ページ強の小説の中にごろごろ存在するのだから。私はそんな綿矢さんの才能に意味もなく嫉妬しつつ、同類の主人公にイタタタ……となりながらも彼女が愛おしくてたまらなくって、表現の鮮やかさにハッとする瞬間を数秒おきに経験し、いろいろと悶えながら、本作を読んだのであった。