メアリー&マックス

Que sera sera whatever will be, will be ――

ありのままを受け入れること、寛容であることの難しさと尊さを描いた傑作。大傑作。

試写等で観賞した方々から絶賛評多数、信頼するお姉さんも太鼓判をおしているということで、当初からかなり期待はしていたのだが、いやあこれは想像を超えていたよ。期待通り、なんて言うにはあまりに苦味が多くシビアな内容。しかしそれゆえにほんのちょっとの甘さがどうしようもなく愛おしい。思っていた以上に辛い現実をまざまざと突きつけられ、その「人生は思い通りにならない」の厳しい前提にたっているからこその本物の優しさが身にしみて、思わず涙がこぼれる。



物語のはじまりは1970年代半ば。オーストラリア、メルボルンに住む8才の女の子メアリーは、うんち色の痣をおでこにもち、瞳は水たまりの泥の色。いじめられっ子でいつもひとりぼっち。一方ニュヨークに住む中年男性マックスも、大都会の中でひとりぼっちの生活を送っている。表情から人の感情を読みとることができず、自身もうまく感情表現ができない(これは後にアスペルガーと診断される)。そんな年齢も性別も環境もまったく違うけれど、それぞれに問題を抱えた"ひとりぼっち"の二人が、文通によって友情を育んでいく。

序盤から三人称のナレーションがかなり饒舌で、キャラクターの心情からは距離をおき、物語を淡々と進行していく。そのあけすけできっぱりと言いきる語り口は時に冷徹ですらあって、押しつけがましい演出もなく、観客の心に無理に近づこうとはしないので、私も最初はそれなりの距離をとりながら観ていたはずだった。しかし、いつのまにか物語がそっと心に寄り添っていて、それに気づいた頃には涙が止まらなくなっていた。

ストーリーは想像以上にヘビー。二人以外のキャラクター達も皆それぞれに問題を抱えているし、映画には死が溢れている。実写では露悪的にすぎるやもしれないグロさとブラックさもあるが、これがクレイアニメとは非常に相性がよく、「クレイアニメだからこそできる突っ込んだ表現」になっていて、かなりシビアで痛いところも真っ直ぐ突く。何事も順調にはいかない二人。生きることは困難なこと。しかしだからこそ、その中で二人の間に海を越えて芽生えた絆が光る。二人ともチョコレートが大好きで、手紙にチョコを添え交換しあうのが楽しい。

とはいえ、二人の友情も最初から最後までずっと順調というわけではない。メルボルンとNYという二人を隔てる長い距離や手紙によって繋がる絆のか細さ、心許なさゆえに、二人の交流は時にそれぞれの心の傷を抉ってしまったり、孤独を深めてしまったりするものでもある。こうしたすれ違いは繋がる手段が手紙でなくとも、誰かと関係をもつ際には避けられないものだ。そんな人と繋がることの難しさや厄介さ、だからこその素晴らしさを、本作は活写している。

それに他者を理解し受け入れるのは口で言うほど簡単なことではない。誰かのためを思ってしたことがその人を傷つけることもある。メアリーがマックスにしてしまったのと同じことを、私達は皆少なからずやってしまった経験があるはずで、だからあの場面は観ているこっちも痛くて痛くてたまらない。互いに理解と尊重のある関係を築くってそんなに簡単なことじゃない――映画はこのことを厳しく突きつける。それでも、本当の優しさ、本当の寛容は存在するという祈りに似た希望もこの映画にはあって、それがとても感動的なのだ。

人の苦悩を治せる魔法の薬なんて存在しない――こう言い放ったのはメアリーの恋の相手、ダミアンだったけれど、彼だって問題を抱えながら生きている。吃音で俳優志望。壁にぶち当たった経験がきっとあるはず。そんな彼からこの言葉が発せられたことに大きな意味があると思う。個性を病や障害の型に無理やりあてはめ矯正しようとしてはいけないし、それは不可能なこと。真の優しさというのはそういうことではない。本当に友達のことを思いやるというのはどういうことなのか。それも、マックスのように社会からアウトサイダーとして認識されている人を。

これはメアリーの問題であると同時に私達の問題でもあって、私達はまず、生きていくのに「こうすればうまくいく」なんて方法はないのだという現実を受け入れなくてはならない。人生、誰もが最終的にはひとりぼっち、望む方向に進まないこともいっぱいある。大人になってから鈍感になってしまっていたメアリーと、そして私達は、この絶対的な事実と向き合うことを余儀なくされる。そして流れる、名曲ケ・セラ・セラ。ああなんて完璧なタイミングなんだろう。ケ・セラ・セラ、なるようになる。世界は残酷で、唐突な死によって家族や友人を突然亡くすこともある。それでも世界は流れを止めずに進んでいく。そんな世界を受け入れるために、まずは「自分自身を愛せ(Love yourself first)」。不完全な自分を愛せるようになったら、世界を許し、友を許せるようになる。本当の寛容はそうやって生まれる。厳しい現実と向き合ってこそ、その先の優しさや美しさに触れることができるのだ。だからこの映画は美しい。嘘が一切なく、醜さも痛さもすべてさらけ出し、それらに最後まで寄り添っているから。時に冷徹にすら思えてしまうほどの正直さあっての優しさと美しさなのだ。

ケ・セラ・セラ以降のラスト約10分は映画として最高の瞬間の連続で、魔法がかかっているとしか思えない。最後の壁一面の……はその美しさに息を飲んだ。映画の魔法がかかっているシーンは他にもいくつもあって、涙をビンにためるシーンでは涙一粒一粒に神が宿っておったよ。普段クレイアニメはそんなに観ないということもあって、ここまでいろんなことが表現できるのか!という驚きもあり、手紙に涙が滲むシーンも小さく感動した。各キャラクターの造形もどれも丁寧で手を抜いているものはなく、特に毒々しくデフォルメされたアル中のメアリーママが迫力満点でよかった。

生きることは辛い。人間は不完全で欠点があって、それゆえにすれ違ったり傷つけあったりする。でも、不完全だからこそ、許すことができるのだ。歪さや欠点を丸ごと飲み込み、すべてをそのまま受け入れる、この映画の本物の優しさが、不完全な私達をそっと包んでくれる。




ケ・セラ・セラ、ほんとに名曲すぎる。この映画観てからもう何回も聴いてるんだけど、聴くたびに涙が出そうになる。