シリアスマン

ヒューマントラストシネマ有楽町にて終演日にすべりこみで観てまいりました。

傑作でした。コーエン兄弟作品ってどれも独特のクセがあって、それが(私的に)いいほうに転ぶことも悪いほうに転ぶこともあるんだけれど、本作はすべてがいいほうにいっている。彼ららしいシュールなユーモアがスウィングしてスウィングしてスウィングしていて、どこまでもいけそうなかんじ……これすごくわかりづらい表現だ……まあ何が言いたいかというと、非常に軽妙で観ていて素直に楽しいコメディ作品だった。これまで観たコーエン兄弟作品の中ではトップ3に入るほど好き。

本作は簡潔に言い表すなら「緻密なアンサンブル映画」というかんじか。アドリブは一切なし、撮影前にカット割りまで細かく決めているというコーエン兄弟の作品は、どれも計算しつくされていて完成度が高いけれど、本作は特に演技、脚本、演出、撮影、音楽などの諸要素のレベルがとても高く、それらが高次で絡み合って素晴らしいアンサンブルを生んでいる。

映画はまず、ユダヤ教の聖書学者ラシの「身に降りかかることすべてをありのまま受け入れよ」という言葉から始まる。それから本編とは関係がないらしい民話のような小さなお話が続く。人を殺したのか、はたまた悪霊を退治したのか、みたいな話。この民話の解釈や意図は正直私にはわからない。でも短い中にコーエン兄弟らしさがぎゅっと詰まっていて、彼らの姿勢の表明にも見えると思った。ユダヤ、不条理、ホラ話……彼らが一貫して描いてきたモチーフ、得意とする型が凝縮されているような。そしてこれから続く話もそのような内容なんだよという、本編の手引きのような導入部ではないかなと思う。

そして本編のオープニング。ジェファーソン・エアプレインのSomebody To Loveにのせてキャストの名前が出てくる。それから主人公ラリーの息子ダニーが聴いているカセットウォークマン(時代は1967年!)のイヤホンに画面が移って、くねくね曲がるコードをカメラが追っていく。オープニングからまったく隙のない音楽づかいと構図。コーエン兄弟はいつだって軸がぶれない。そのまっすぐ通った芯の強さゆえにハードボイルドなかっこよさを備えている。奇妙なオフビートコメディの監督としてのイメージが強いけれど、実は骨の部分はすごくしっかりしていて根本は硬派であるということがわかると、彼らの作品はより楽しい(経験談)。このオープニングにも彼らの芯のまっすぐさがよく表れている。

本作のストーリーは旧約聖書ヨブ記が下敷きになっているように思える。コーエン兄弟自身はまったくヨブ記との関連は意識していなかったそうだが(http://www.movienet.co.jp/news/2011/01/seriousman110124.html)、ユダヤ人として育ち聖書は暗誦できるほど勉強しているはずである彼らの頭にヨブ記が浮かばなかったというのは意外だし、ひょっとしたら無意識のうちに参考にしていたのかもしれない。それくらい聖書の内容が染みついていておかしくないはずだから。

ヨブ記については、詳しくはここ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%96%E8%A8%98)を参照してもらいたい、というか私自身ウィキ程度の知識しかないのだが、要するにこれは「深い信仰心をもってこれまで真面目に生きてきた男が次々に災難に見舞われる」話で、それってつまり本作のストーリーそのものなのだ。ユダヤ人コミュニティで暮らし、子供をちゃんとユダヤ学校に通わせ、自らは大学講師として地道に働いてきた、主人公ラリー。しかしそんな真面目な彼に、妻からの突然の離婚要求をはじめとして、なぜか次々と不幸が降りかかってくる。

私達は、災難が重なると、すぐそこに理由や意味を求めてしまいがちだ。無神論的な考えが多い日本人でも、そうだと思う。「なんでこんなにひどい目に遭うんだろう?私が何か悪いことをしたからなの?」という具合に。不幸の理由や事象の意味がわかれば、心は軽くなるし、災難に遭わないように生きていこうと心がけられる。でも、物事はそんなに簡単じゃないし、何をやっても泥沼にはまるときもある。身に降りかかることすべてが、因果応報といえるのだろうか。例えば、冒頭の民話についてコーエン兄弟は「これは完全に独立した話で本編とは関係がない」と言っているのだが、それでも私達は本編との繋がりを意識する。あるいは、ラストにとったラリーの行動と彼への報せの因果を考えたくなる。でも、そこに繋がりなんて本当にあるのだろうか。

主人公ラリーも、自分に降りかかる不幸に意味を求め、アドバイスを貰おうと何人かのラビ(ユダヤ教の坊さん)のもとを訪ねる。しかしラビ達は答えを与えてくれない。結局のところ、それに何の意味があるのか彼らにもわからないからだ。

ヨブ記によると、「人間に降りかかる災難は必ずしも因果応報によるものではない」し、「罪を犯していなくとも不幸に見舞われることはある」らしい。そうか、それなら真面目なラリーが不幸な状況に陥っているのはまったく彼のせいではないのか、というと、それもそうとも限らない。ヨブ記には、「神には神の計画があるが、それを人間が知ることはできない」「人間に与えられた試練の意味は人間にはわからない」というようなことも書かれているのだ。ラリーは教えを乞うけれども、真実はまさに神のみぞ知る。「ひたすらに真面目に生きてきた男がひどい目に遭うのはなぜ?」――この問いに答えられる人間は誰もいない。

他のコーエン兄弟作品の場合、登場人物達が身を滅ぼすのは、彼らが愚かだったからとか犯罪に手を染めたからとか言えてしまうと思う。例えば「ファーゴ」とか「バーン・アフター・リーディング」とか。あるいは「ノーカントリー」も、麻薬を持ち逃げしたりするからあんな変な髪型の殺し屋に追われるはめになるのだ。しかし本作の場合は違う。ラリーは、賢いとは言えないけれどバカなことはしなかったし、自分から悪いこともしたことがなかった。だから私達は、彼がなぜ不幸な目に遭うのかますます判断できなくなってしまう。

つまるところ、人生なんてこの上なく不条理なものだし、人間は世界の大きな流れの中では無力――これがコーエン兄弟作品に一貫して流れるテーマなのだが、本作は主人公が「真面目である」ゆえに、その不条理度が他の作品よりも増している。彼らがここまで人生の不条理をはっきり描いた作品は、少なくとも私の場合初めて観た。彼らの少年時代をベースにした作品ということもあるし、本作はコーエン兄弟がこれまで描いてきたテーマの集約といえるだろうか。

己に与えられた試練の意味を知ることはできない。冒頭のラシの言葉通り、人間は幸も不幸も「ありのまま受け入れる」しかない。しかしそれにしても、ラリーはあまりに受動的だ。教えを乞い自分は何もしていないのにと嘆くばかり。ここで「本物の勇気(トゥルー・グリット)」をもっている人間ならば、自分で状況を打破できるのだけれど。