バッキンガムの光芒 ファージングⅢ(ジョー・ウォルトン)

バッキンガムの光芒 (ファージング?) (創元推理文庫)

バッキンガムの光芒 (ファージング?) (創元推理文庫)

もし第二次世界大戦中にイギリスとナチスドイツが講話条約を結んでいたら世界はどうなっていたか――という説明はもう不要だろうか?カナダ在住の女性作家、ジョー・ウォルトンによる歴史改変シリーズ、ファージング3部作。その完結編である「バッキンガムの光芒 ファージングⅢ」を読んだ。(Ⅰの感想→http://d.hatena.ne.jp/momochixxx/20110306Ⅱの感想→http://d.hatena.ne.jp/momochixxx/20110420)

本当は時間をかけてじっくりと読むつもりだったんだけれど、読書スピードのコントロールなんて本作を前にしてはできなかった。まず「Ⅱの感想を書く前にちょっとⅢに入っておくか」で一気に真ん中まで。「いけない、いけない、これじゃⅡの感想書けなくなるぞ」と読むのを止め、感想を書き上げてから再開。残り100ページ弱のところまで読んで、「あとは明日にとっておこう」と思ったものの、その数時間後には読むのを我慢するのが辛くなり、結局夜中の2時頃からおもむろに再開して、そのまま明け方までかけて一気に読みきってしまった。読み終わるのがもったいない、でもページをめくる手が止まらない――そんなジレンマを感じながら、最後はひたすら文字を追っていた。

読んでいる間はとにかく読むことだけに集中していて、あまり何も考えられなかったんだけれど、読了して、さあ寝ようと思ってベッドに入ってからふと振り返ったら、どんどん涙が溢れてきた。これまでに流された血と涙、払ってきた犠牲、カーマイケルの心痛み、そして女の子達の成長と格闘!これらが目を閉じた瞬間にぐわあっと頭の中を駆けめぐって、無性に泣けてきて、結局その日は全然寝れなかったんだよ(笑)。

本作の時代設定は1960年。Ⅰ、Ⅱから10年以上経過している。その間にイギリスではファシズム政治が定着。人々は恐怖により抑えつけられ、ファージングセットの権力掌握以降に育った若者の多くはこの政治体制に疑問を感じていない。ちなみに長い長い戦争はナチスドイツの勝利に終わる。そして世界の権力構図はさらに複雑化していく様相を見せている。イギリスのファシズム政権も安泰ではない。様々な勢力が混在しており、陰謀の噂も。比較的わかりやすいストーリーだった前2作に比べて、だいぶ複雑で先の読めない緊迫した展開になっている。

本作での女性語り手は、18才のエルヴィラ。詳しくは書かないけれど、Ⅰを既に読んでいる人であれば、彼女が誰だかわかるはず。社交界デビューを間近に控え、目の前に開かれた世界に胸踊らせる、容姿に恵まれた聡明な女の子。人生には希望しかないと言わんばかりの瑞々しい若さをひっさげたエルヴィラは、これまで政治とは無縁の生活を送っていたし、ファシズムのことは「楽しいもの」だと思っていた。今の私達からすれば、ファシズムが楽しいなんて!と当然なるわけだが、しかし彼女の無知を笑うことはできない。今だって、状況は似たようなものだ。ほとんどの人は政治の世界で実際に何が起こっているか知らない。「ファシストたちとの静かな生活」は私達の現実とどれほど違うのだろうか。この3部作の舞台は架空の世界であるが、同時に「あったかもしれない世界/ここと変わらない世界」でもある。このパラレルワールドは私達とはなんら関係のない空想だけの世界ではないし、エルヴィラは私やあなたの隣に住んでいたっておかしくない普通の女の子なのだ。そんな普通の女の子が、あることをきっかけに権力が人々を不当に痛めつけている現実知る。そして勇気をもって立ち上がる。その姿を見て私も考える――私には何ができるだろう?これはそういう小説なのだ。単にフィクションとして片付けられない。私達の現実へ跳ね返り、考えさせる。怒りや恐怖や抑圧を乗り越えるために、私達は何をすべきなのか、それを教えてくれる。

ファージング3部作はシリーズを通して三人称と一人称の二つの視座から物語を語ってきた。一人称パートの女性語り手は3作それぞれ違い、どれも上流階級や演劇界という日本に住む一般人の我々には馴染みのない世界が舞台であったが、すべて「普通の人々」の目線から見た物語であることには違いない。迫害されるユダヤ人を主人公に据えたり、強制収容所の様子を事細かに描写したりはしなかった。ⅠのルーシーもⅡのヴァイオラも、それまではずっと非政治的な日常を送る普通の女性だったし、きっと何も起こらなければ何も知らずにそれなりに幸せに生きていたであろう。しかし、そういう普通の人々が動かなければ世界は変わらない。虐げられた人々(ここでは主にユダヤ人)の叫び――もちろんそれにも大きな意味があるのだが、最終的には現状にそれなりに満足している一般人が目を開き立ち上がらなければ、世界はよくならない。そしてそんな普通の人々が、現実を知り伝えることで世界を変えていこうとする物語をこんなにも力強く、それも三人の女性がそれぞれに現実に立ち向かい成長し格闘していく乙女小説として描いたからこそ、この3部作は歴史改変ミステリというジャンルを越えて感動的に心に響くのだ。

私が一人称パートで特に大好きなのは、一人称だからこそ感じとれる女性主人公達の「明確な意思」。自分が見たこと/経験したことをとにかく誰かに伝えなくては、というその思いが、彼女達にペンをとらせる。三人称で綴られていたら、その伝えたいという思いは読み手には伝わらない。女の子達が自らの意思で語る、これこそがすごく大切なこと。不当な行いが国家権力の名のもとにまかり通る現実に目を開く瞬間がまずあって、それから己を奮い立たせて文章に書きおこす。その瞬間の、個のもつ力の輝きは、一人称でなければわからないんだよね。

それに、女の子達が料理やファッションを楽しんでいる姿が単純に読んでいて楽しい。絶望的な状況と緊張感のあるストーリーを描きながらも、楽しさを忘れないのが乙女小説の心意気。それはクライマックスに社交パーティーを設定したことからも窺える。特に本作は18才の女の子が主人公ということで、新しい世界に触れた瞬間の瑞々しさが感じられてよい。エルヴィラが親友のベッツィとパレードに何を着ていくか話し合う場面とか素敵だなあ。そしてこれ、本質的にはⅡでのヴァイオラと友人モリーがパーティーに着ていくものを話し合う場面と同じことなのだ。年齢も境遇も違うそれぞれのヒロイン。でも一人の乙女であることには変わらない。ディテールの描写にシリーズとしての一貫した姿勢が見えていいな。

3作を通しての主人公、カーマイケルは、Ⅱの後から役職が変わり、本作では警部補ではなくイギリス版ゲシュタポ「ザ・ウォッチ」の隊長になっている。Ⅰでの「自分はすべての人間を操れると思いあがっている人間は、男も女も嫌いだよ」という言葉とは裏腹に、支配権力に絡みとられ利用されてしまう皮肉。打ちのめされ、傷つき、苦悩しながらも、やるべきことをやり、生きることを選んだカーマイケルに、私からも「お疲れ様」を言いたい。彼が最後に味わった感覚、それは一つの言葉で簡単に言い表せるものではなくて、痛みであり苦みであり、そして希望である。彼自身、いつだって清く正しい人間ではいられなかった。それでも、芯の部分は曲げずに清濁を併せ飲みながら少しずつ壁を破ろうとする彼の姿に、深い感銘と特別な愛おしさを抱かずにはいられない。生きることの力強さってこういうことだったんだ。いやもう、本当にありがとう。そしてお疲れ様。

Ⅰ、Ⅱの後日談や伏線の回収も交えつつ、物語は終盤大きなうねりを見せる。イギリスのみならず世界へメッセージを発信できるよう、舞台が設定してあるのも素晴らしいし、最後にすべてを一つに集約する手腕も見事。後の展開を推測できない、まさに怒濤の波とでもいうような物語に引っ張られ、最後は私と同じようにひたすらページをめくることになるはず。しかし正直いうと、ラスト100ページあたりは読んでいてかなり辛い。まったく甘い話ではないし、容赦もしないから。それでも読むのを止められないのは、突き進んだその先、ラストに何かがあるような予感がしたからだと思う。

「わたしは、希望を失ったことのない楽天家である。だからこそ、この三部作を書いた。」という冒頭の謝辞の著者による言葉からわかる通り、最後はちょっと楽観的だ。しかし、その先はまったくの未定である。このラストの先の世界って、つまり私達の世界なのではないだろうか。この未来は私達に託されている。3部作を通して、世界を動かすために個人ができることを学んだ。だからこの後は、私達が未来を作っていくんだ、と。こんな言い方をすると、ちょっと大げさすぎるんじゃと思われるかもしれないが、本作を読んで感じたことは、ただ「おもしろい」とか「いい作品を読んだな」ってことだけではなかった。Ⅱでのカーマイケルの「世界を変えたいのなら、人びとの思考から変えていかなければだめだ」という言葉の通り、敵を攻撃し倒せば世界はよくなるわけではない。まずは知り、それから伝えないと。やるべきことは多い。「書く」ことは闘いの最も有効な手段になりうる。まずは書くことをやめないようにしよう。そしてこの文章が少しでもファージングを広めるのに貢献したらよいね。