薄い主人公と魅力的な脇役/マシュー・ヴォーン考察の出発点

キック・アス」のコミックを読んでて、いくつか映画との違いで「ほうほう、なるほど」と思うところがあったんだけど、中でも一番興味深かったのは、「コミックと映画でレッド・ミストのキャラクターがまったく異なる」という点だった。簡単に言ってしまうと、コミックのレッド・ミストはズルい小悪党として描かれていて、映画版のレッド・ミストはマフィアのボスであるパパを手伝ってはいるけども、決して悪党ではない、という違いがある。具体的に例を挙げるなら、マフィアの連中がただヒーローごっこをしているだけ(つまりマフィア側に損害は与えていない)のキック・アスにさえも非情に制裁を与えようとするとき、映画版では「こいつは違うんだよ!友だちなんだよ!ただのオタクなんだよ!」と言うんだけど、コミックではまったくキック・アスを擁護しないし、むしろ彼が拷問を受けるのを嬉々として見ている。要するに、コミックのレッド・ミストは完全に卑怯な悪役になっているわけだ。じゃあ映画版のレッド・ミストはどういうキャラクターかというと、これがたいへん可哀想で魅力的なんだよね。マフィアのボスの子だからお金持ちでほしいものは何でも買えるけど、いつもボディーガードがついていて友だちはできないし、パパに何とかして認めてもらいたいから協力するけど、パパがどれだけ酷いことをしているかはよく知らない。実情を知ってからではもう遅く、キック・アスを擁護しても聞いてもらえず、あげく友人だと思っていたキック・アスにパパを殺される。もうね、普通に考えてこの子めちゃくちゃ可哀想だし、物凄い過酷な人生を送ってるの。父を殺され生活を破壊された悲しみや怒りが彼を悪の道に引き込んでいくっていうのもとても説得力があって、むしろ感情移入してしまうくらい。最初から悪役だったコミック版と違い、映画版のレッド・ミストはヴィランへと変貌を遂げる過程、というか説得力のある理由が物語としてしっかりと描かれていてる。この映画で一番変化したのは、実をいうと(別に実を言わなくても、か)レッド・ミストなのだ。影の主人公と言っても差し支えないほどに、映画版のレッド・ミストはキャラクターがしっかり彫りこまれていて魅力的である。

じゃあ本当の主人公キック・アスはどうかというと、これもまたコミックと映画でけっこう違う。どちらも、モテない・冴えない・取り柄がないというないない尽くしの平凡な少年だけど、コミックのキック・アスは孤独や絶望を抱えていて、社会に対して不満を感じている。しかし映画版のキック・アスにはそれすらない。彼は本当に何も背負ってなくて、ただ「ヒーローになってみたい」という願望だけがある。この願望だけで「ヒーローになる」を実践しちゃうんだよ。つまり抱えるものがないぶん物凄い身軽なのだ。だから彼はラストであそこまでいってしまう。正直いって、コミックと比べると映画のキック・アスはだいぶ薄いキャラクターになっていると思う。コミックのキック・アスは、どうしようもない絶望と孤独をヒーローの魂に変えていくけれど、映画版ではそれがないからね。

そして映画版のキック・アスとレッド・ミストを比べると、やっぱり主人公レッド・ミストじゃないかー?というくらい、キック・アスが悪く言えばペラくて、レッド・ミストが魅力的になっている。この主人公の薄さと脇役のキャラクターの充実ぶりを見ていて思うことが一つあって、それは「この現象『スターダスト』と同じじゃね?」ということ。「スターダスト」はマシュー・ヴォーンが「キック・アス」の前に撮った作品で、この作品の軸は一応主人公の男女のラブコメディなんだけど、感想として「主人公カップルが魅力薄」「ラブコメとして弱い」というのがよく言われる。確かに、主人公カップルは「互いに互いじゃなくちゃいけない」があまり感じられないし、正直地味だ。一方で、ロバート・デ・ニーロなどの豪華俳優を揃えた脇役たちは皆キャラが立っていておもしろい。デ・ニーロのノリノリ姿とか最高でしょ。「脇をかためる登場人物はいいけど主役がなー……」という感想が、この作品には一番多い気がする。そして、これってやはり「キック・アス」の状況に似ていないだろうか。

ということで、最近は「スターダスト」と「キック・アス」における主人公の薄さと脇役の充実ぶりについて考えてる。他のマシュー・ヴォーン作品、「レイヤー・ケーキ」と「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」ではこの現象は起きていないんだけど、この2作と先に挙げた2作の構造の違い、主人公の立場の違いを考えると、まあそれは当然のことかなと思う。どういうことかっていうのは次回書くとして、とりあえず「スターダスト」と「キック・アス」の主人公の共通点は、日常からファンタジーの世界に飛び込む人間だってとこで今日はおしまい。