スーパー!

美人の妻をイケてるドラッグ・ディーラーに奪われた(というかクスリ漬けにされてしまった)冴えない中年男が、妻を助け出すべく、自前のコスチュームを身にまといレンチ片手に悪人退治!スーパーヒーロー、クリムゾンボルト参上だ!

ということで、どうしたって「キック・アス」と比較してしまうのは仕方のない話で、実際この2作は表裏の関係にあると思う。「特殊能力を持たない一般人がヒーローになろうとしたら……」という同じアイディアからスタートしながら、まったく違うベクトルに展開した2作。「スーパー!」を観ると、「正義のもとに力を行使する」ことの異常さがよくわかるし、一方で「キック・アス」がよくできたエンタメ映画であること(と如何にこの映画が「なんか楽しいことやろーぜ!」エネルギーだけで突っ走っているか)を再認識するよ。(でもなるべく比較しない形で以下に感想記す。段落を下りていくごとにネタバレが増すよ。)

なんといっても、クリムゾンボルトの相棒ボルティことリビーを演じたエレン・ペイジがいい。この人の実力というのはもう誰もが認めるところだろうけど、本作での彼女はとにかくフリーキーで、それでいて愛らしくて、素晴らしかった。

「JUNO」や「ローラーガールズ・ダイアリー」の、あのエレンちゃんがセクシーポーズ。ここはもうどうしたって笑うよねえ!「好きな女優を一人挙げよ」と言われたら迷わず名前が出てくるくらい、私はエレンちゃんが好きなので(彼女が演じてきた役の年齢と私の年齢がリンクしすぎなのだ)、始終彼女に目が釘付けだった。逆にいうと、エレンちゃんのインパクトが強すぎて、他が記憶薄になってるところもあるのだけど。

リビーはまあはっきり言ってかなりイカれているキャラクターで、とにかく狂暴。罪を犯したかどうかもわからない人間を平気で半殺しにしてしまう(むしろ、フランク=クリムゾンボルト=主人公に止められなければ殺していただろう)。それを見たフランクは「これはおかしい、狂っている」と思い、自分がそれまでしてきた行為、「ヒーローになること」について客観的に考えざるを得なくなる。つまりリビーというキャラクターは、「正義のもとに力を行使する」ということを対象化して、その狂気を外から見つめる視点を生み出す役割を担っているのだと思う。

だから本作は常に「狂っている」ことに対して自覚的で、これは「キック・アス」がまったく取り扱っていなかった点である(でも別にそれが「キック・アス」の欠点だとも思わないけど)。ヒーローになるとはどういうことか?正義とは何か?正義のためならば一般人が法の外で暴力を行使してよいのか?リビーという完全におかしな、加減を知らない存在がいることによって、フランクやスクリーンのこちら側にいる私たちは、これらの問いに直面することになる。

観る前はまったく予想していなかったのだけれど、本作は案外宗教色が強い。フランクは神の啓示を受けて、悪い奴らをやっつけるのだと立ち上がる。自分はそのために「選ばれた人間」なのだ、と。しかし最初はそうしてノリノリで突っ走っていっても、先述の通りすぐに「こんなことをしているのはおかしい、自分は自分が退治している悪人たちと変わらないのではないか」と立ち止まることになる。それでもフランクは、自分がしている行為が孕む狂気を自覚しながらも、それを引きずったまま走ろうとする。神に選ばれた男として自信満々に闘うのではなく、「自分は狂っているかもしれない、犯罪者と変わらないかもしれない、それでもやってみなければわからない」とある意味自らを投げ出して闘うのである。そしてやってみた結果どうなるか、それを知っているのが、つまり神様なのだ。だから自分は、ただやってみるしかない。その先に何が待っているかは、自分が決めることではない。

神様というのは基本的に、人間を暖かく見守っていつでも味方してくれる存在というよりは、人間には理解できない計画のもと世界を動かし、時には人間に理不尽とも思える試練を与え、それでも最後には世界を調和へと導く「超越者」なのであって、本作における神もそういう存在だと思う。本作が「神」を出してきた(これも「キック・アス」にはまったくなかったこと)のは、「正義」は誰かが規定できるもんじゃないということを示すと同時に、それでも突き進むことに意味を与えようとしているからではないかな。人間は何が得られるかを考えて行動することはできない。ただ行動するだけ。でも、だからこそ行動する意味があるとも言える。

「ヒーローになる」ことの異常性、狂気、危険、いろんなものを引きずりながら走ろうとするフランクの、その引きずっているものから目を逸らさなかった点はすごくよかったと思うし、突き進んだ先で手にするものは、そして失うものは何か――という展開も非常におもしろい。のだけど、その結果の部分、ラストにどうにも引っかかってしまう。

(ここまでくると完全にネタバレの域)

そのモヤモヤの理由は自分でもはっきりわからなくて困っているのだけれど、たぶんラストを主人公のモノローグで締め括っているのに違和感があるのだと思う。クライマックスでフランクがした行為は一旦すべてをめちゃくちゃにしてしまうようなものなわけだけど、その後のエピソードが彼のモノローグによってさらりとまとめられることで、めちゃくちゃにしてしまった後でそこから指先に引っかかった何かを掬い出す、その過程に飛躍が生まれている気がする。ここはもっと時間をかけて描写してもよかったのではないかなあ、と。着地がずいぶんとあっさりしているので、なんだか居心地が悪かった。

それと、ボルティの登場以降、フランクは「正義のもとに力を行使する」ことの狂気を見つめる目を持っていた。ボルティがいたことで、作品を客観的に定義づける視点が生まれたのだ。しかし、ボルティなきラストシーンにおいて、フランクは何を見つめるのか。どうやってものを客観的に見るのか。フランクは対象を失ったために、客観的にものを見て規定する存在ではなくなったと思う。じゃあ誰がこれを定義づけるのかといえば、それは神ではなくて映画を観ているこちら側の人間なんだろう。規定者ではない人間のモノローグは単に彼が思う正義を口にしているだけだから、このラストにモヤモヤを感じるのは当然かもしれない。そしてこのモヤモヤを含めての作品ということであれば、やっぱりこれ傑作なんじゃないのという気がしてくる。好きかと言われるとすごく微妙なんだけど、いろいろと思考を巡らした作品。とりあえず「キック・アス」と「タクシードライバー」(監督はこの作品についてはどれくらい意識してたんだろう)は近いうちに再見したいな。