ヒア アフター

観た直後と感想がけっこう変わりましたが、とりあえず今の考えを記しときます。

最後のほうでラストシーンについてけっこう触れているので、観賞後に読んだほうがいいかもしれない。

御年80歳のクリント・イーストウッドが「hereafter=来世」というタイトルの映画を監督したと聞くと、「年をとるとそういうことを考えたくなるのかしらね」と思ってしまいそうになるけれど、この作品はそんなこちらの憶測を一蹴するような、むしろ青くてエモーショナルな映画であったということをまず何よりも強調しておきたい。これはあくまで、死後の世界を思い悩む、あるいは背負い苦しむ人々の孤独と格闘の物語=「生きている」人間のドラマで、来世そのものについてはほとんど語られない。そしてそのラストは、老成による落ち着きではなく、瑞々しい青年の希望の眼差しと突っ走ったロマンに彩られている。この作品は死後の世界をテーマにしながら、実際には若々しい「生」への希望を強く感じさせる作品だった。「来世とかそんなスピリチュアルなテーマ……自分はまだそういう年じゃないし」と懐疑的な人にも観てほしいなあ。

サイキックものというとやっぱり胡散臭い、低俗なテーマと思われがちだし、私も正直微妙と思っていたのだが、この作品が「来世は存在する」という前提にたった話であるにも関わらず、リアリティをもった人間ドラマとして仕上がっているのは、脚本を担当したピーター・モーガンが本作の着想時期に経験した出来事と関係があると思う。モーガンはこの脚本を書き始める前に、大切な友人を突然亡くしたそうで、それから「死んだあいつはどこへ行ってしまったのだろう」と考えたという。そして「構成も練らぬまま、感情のわきあがるままに」この脚本を書きあげたのだとか。だからこの作品は、「来世」そのものではなく、「人は死んだらどうなってしまうのだろうか」という人間にとって実に普遍的な問題と向き合っている。そしてそうした問題と向き合う人々の心を描き出したこの物語は、当時のモーガン自身とも重なる部分があるのだと思う。さらにいえば、本人自身が「感情のわきあがるままに」と発言しているのだし、この作品で描かれる人々の考えや行動は、そのまま当時のピーター・モーガンを映し出しているのではないか。この作品が、死後の世界と向き合い、思い悩む人々の切実なドラマになっているのは、たぶんこういうことも関係しているんだろう。「『友人の死をきっかけにして書かれた脚本』だから胸に迫る」と簡単に言うべきではないが、物静かな語り口なのに物語自体はやたらとエモーショナルだったり、ロマンチックだったりすることの正体は、こういうところにあるのかもしれないなあと思った。この作品は、死後の世界について考え、「生きること」の中でもがく人々の、「孤独な心」にこそ、共感の視線を送っている。

主要登場人物3人は、それぞれ異なった立場でありながら、みな孤独を抱えていると思う。サンフランシスコの肉体労働者ジョージは、かつては霊能力者として活動していたが、今では霊視の才能を「呪い」として忌み嫌っており、その能力ゆえに自分は普通の人生が送れないと思っている。彼の心は死後の世界にかなり強く縛りつけられているように感じる。ロンドンのマーカス少年は、いつも頼っていた双子の兄を事故で亡くし、その悲しみから立ち直れていない。兄との別れを受け入れられず、再び兄と交流するために霊視に興味をもつ。パリの女性ジャーナリスト、マリーは、休暇先で津波に巻き込まれ臨死体験をし、死後の世界を垣間見る。その光景が頭から離れず、「人は死んだらどうなるか」を探究しはじめるが、信頼するパートナーからの理解は得られない。

死後の世界や失った大切な人について思いを馳せる、というのは、孤独を伴うものなのだと思う。それは生の世界での孤独な闘いを強いる。つまり、死後の世界に、ある意味ではとりつかれた人々が、生の世界での孤独の中でもがくということ。そしてこの孤独は、モーガンが脚本執筆時に感じたこととリンクするのかもしれない。本作はそんな孤独な3人の物語が、長いこと交わらぬまま平行して描かれる。作り手側からの3者へのシンパシーは均等だ。死後の世界を見つめる3人が、それぞれ孤独に生の世界で闘う姿を静かに追っていく。彼らのエピソードは独立している。複数の人間の孤独をそれぞれ別個に描くことで、群像劇の人間ドラマとしてより普遍的な物語を立ち上げることに成功していると思う。

また、テーマに引きずられず、常に「人」を描こうとしたイーストウッドの眼差しもやはりさすがだと思った。特にイーストウッドのファンではないし、監督作もそれほど観ていないけれど、彼が撮るのはいつも「人間の物語」だなとは以前から思っている。「チェンジリング」のような社会派の題材のときも、一人の女性の物語という軸からはぶれなかったし、今回もその確固たる姿勢は揺るがなかった。あのスペクタクルな津波シーンでもセシル・ドゥ・フランス演じるマリーが一人の人間として波と格闘する様が生々しく描かれているし、何よりイーストウッド映画は、あの優しく美しい音楽をバックに登場人物が一人佇む画にこそ素晴らしい風格がそなわっているように思う。そして劇中何度か登場する「死後の世界」のイメージは非常に簡素な映像を一瞬映すのみで、「来世」そのものにはほとんど踏み込もうとしない。霊視もいたってシンプルだった。常に「人」を撮る監督、イーストウッドだからこそ、この手の題材に漂いがちな胡散臭さを回避できた面もある。

しかしこの作品はまあなんとも不思議なところがいくつかあって、観た直後は「なんだかキラキラしてるけど、よくわからない映画だな」と思った。先に書いたように、ストーリーテリング自体はじっくり、ゆっくり、淡々と描いていくいつものイーストウッド節なのに、物語はなんだかエモーショナルに走っていて、意図的にやったんだかずれてしまったのかよくわからないものがあるし、冒頭の津波シーン*1もその果たすべき役割以上の迫力をもっていて、意図せずしてそこらのディザスタームービーを軽く凌駕する出来になってしまっている。また、出会わぬまま終わるのではと思うほど主要登場人物3人の邂逅までが長く、邂逅シーン自体もほとんど盛り上がりがない。それなのに、この作品において最も重要な出来事は「邂逅」に他ならなかったりする。ラストまで観ないとわからないけれど、これは紛れもなく「出会い」の映画なんだよなあ。ほんとにほんとのラストシーンでそれは唐突に明らかになるのだけれど。

唐突だけれども、唐突だからこそ、最後の最後にきて「これは『出会い』の映画だったのか」とわからせる、「気づき」の仕組みになっているような気もする。このラストシーンによって、物語のすべてに合点がいくようになるという構造なのではなかろうか。死後の世界に心を囚われた人々に用意された救い、呪いからの解放は「出会い」だった。それも、「同じものを抱える男女の出会いによって何かが変わる」という、青春映画のように瑞々しい希望。群像劇の形をとり、ひたすらに彼らの孤独を描いていたのも、最後にこの出会いという希望を描くためだったのかとすら思うし、目隠し食材当てのシーンがやたらとエロティックなのもこのラストシーンと繋がっているのだろうと思う。この2シーンのシチュエーション、マット・デイモン演じるジョージの表情、そして女の子との距離のとり方の違いを見ると、やはりこれは男の子目線の青春映画ではなかろうか。この作品は主要登場人物3人がほぼ均等に描かれた群像劇でありながら、最後はあくまでジョージの目線で幕を閉じる。これがとても印象的だった。最後でいきなりジョージの心にぐぐっと寄ってしまう。セシル・ドゥ・フランス演じるマリー側の視線は入ってこない。しかも出会いによって何が変わったかは描かないまま終わる。これがあまりにも唐突すぎる気もするのだが、この飛躍した、そしてひたすらにロマンチックな予感だけを残すラストをみたとき、「イーストウッドは男の子の味方だ!」と思った。

子供の頃に大病を患い臨死体験をしてから、死後の世界に囚われていた男の心を、生のフィールドに引きずり出す力が、女の子にはあるんだろうな。たぶん逆もまた真なりだと思うが。予告編を観たときから、「このマット・デイモン老けてるな……」と思ったし、実際劇中でもくたびれた表情をしていたけれど、ラストのマット・デイモンの表情は、15歳の少年のようにキラキラしている。しかも本作は、その出会いのあとを少しも描かない。たぶん、お互いに理解者を見つけた二人はこれからいろんなことを経験していくだろうが、ここではそうした現実ではなくて、あくまで男の子が出会いに際して抱く青い希望のみを描いている。それは完全に男の子目線のロマンチックな終わり方。こうして、複数の登場人物を均等に描く群像劇の形を終盤までとりながら、ラストは瑞々しい青春映画のような一青年の希望の物語として着地することで、最後に唐突ながら確固たる普遍性を獲得しているように思う。こんな青くてロマンチックなラストを描いた作品が、「老いを感じ始めたベテラン監督が死後の世界について思いを馳せて撮った」作品であるわけがないし、やっぱりこのラストにはイーストウッドの狙いがあったのではないかな。とにかく、イーストウッドの心には15歳の少年がまだいると思います。

役者について触れると、主演のマット・デイモンがちゃんと、霊能力という己の才能に疲れた肉体労働者に見えているところがよかった。終盤までなんだかじめっとしたオーラをまとい、最後は少年のような表情を見せるのも素敵。全体的にくりっとしててかわいらしかったな。またロンドンのマーカス少年が会いに行く霊能者達が悉くインチキくさく見えるので、マット・デイモンが本物の霊能力者であることがしっかり際立っていた。

*1:イーストウッド自ら海に入って撮影したらしいすね。すげえ。 http://www.cinematoday.jp/page/A0002863