「発言する」ということ

最近思いついたことは必ずメモをとっておくべきだなーと思うようになりました。「思いついたこと」っていうのは、イケメン/ハンサム論とか窮地に立たされ系映画はエロいとか、そんなことなんですけど。書いておかないとすぐ忘れますね。こないだもね、トイレの神様についていろいろ考えたんです。なんであの曲はヒットしたんだろーなーって。でももう全部忘れてしまった。一応いろんな思考をめぐらした結果、一つの結論を出したはずなんだけどな。また一から考え直しだよね。もったいない。思いついたときに書いておけばよかったんだけど。

メモがわりとしてツイッターに書き込むのが一番楽なんだけどね、書きたくないこともあるじゃん。リプライとかされたくないこともあるじゃん。ツイッターなら誰でも何でも言えるって嘘だしね。特に「誰が」言ったのかってことが結局はとても重要視されてしまうじゃない。トイレの神様の話は、なんでツイッターでつぶやこうと思わなかったのか、それも全然覚えてないけど、なんかそのときは気分じゃなかったんだよね。

で、そういうときにメモとして使うのがブログではないかということを思い出した。「ツイッターで書きたくないことを書く」っていうと消極的な利用法のように思えるけど、全然そんなことはない。インターネット上のあらゆるツールを自分にとって一番いいように使い分けていくってすごい大切なことだし。特にツイッターとかブログとかmixiとか、一般人の発言が不特定多数の人にさらされるメディアが増えている現在、「どこでどんな発言をするか、あるいはしないか」をちゃんと自分でコントロールできる能力が必要になってくるだろうなーと思ってる。

こないだツイッターで書いたんだけど、各々のツイート(発言)は至極まっとうで押しつけがましいものじゃなくても、数が集まるとどんどん高圧的になって上から押しつけるような圧迫感が生まれてしまったりすることってあるじゃないですか。初めは柔軟な思考を擁護してた発言が、束になることでむしろ柔軟さを失わせたり。要するに椅子とりゲームで、高圧的な多数派に対抗する少数派が逆に多数派になって高圧的になるという、そういう危険性があるわけで。そのことに対して自覚的である必要があると思うんです。特にこれからは。

何かの発言が必要以上に力を持ったり権威的になったりしたら、それを抑えるようにバランスをとっていく。その力を養わなきゃいけない。どこでどう発言し、発言しないかっていう。基本的にはこれをちゃんとコントロールできるようにしないとなあと思います。自分が快適にインターネットを使うためにも。最近学校の課題でその手の本を読んだのでこんなこと考えちゃいました。誰でも発言できる時代になったから、少なくともそのことには自覚的であろうということです。