むだい

対象に誠実になろうと言葉を紡げば紡ぐほど、言い訳がましくなってしまうときが一番悔しいし辛いことなのだなと今強く実感してます。私が勝手に自分の頭の中だけでめんどくさく考えてるだけなのかもしれないけど。でもやっぱり私の言葉が足りないんだと思う。基本的に私はズルい人間(しかも「狡猾」というほどの賢さが備わっていないのでただズルいだけ)ですが、でも音楽や映画や本に対しては正直でありたいのです。自分の好きなもので自分はできてるし、逆に自分の好きなもので自分はできていないのだと思う。好きな映画や好きなアーティストの固有名詞で私はできてるんじゃなくて、好きな映画や好きなアーティストから何を感じどう表現するかで私はできてる。当たり前のことだけど、これをちゃんと理解するようになったのはツイッターを始めてからだと思う。ツイッターを始めるまで、基本的に趣味のあう人っていなかった。自分の趣味は少数派なんだなと思ってたし、実際そうだったんだろう。しかしこれこじらせるとややこしくなるもので、自分は少数派→みんなから受け入れられない→文化的選民思想につながっていくよね。ツイッター始めてしばらくのうちは、確実に自分にもこの意識があった。ツイッターにはこの意識を高める効果が少なからずある。でもこれすごくつまらないってことに気づいた。「学校ではみんな○○も××も知らなくてー」「わかるわかる、みんなから理解してもらえないよねー」って言い合うのはほんとつまらないと心底思うようになった。変なマイノリティ意識をこじらせて、固有名詞で自分のアイデンティティを形成したり(あるいは肩書きでアイデンティティを形成したり)、逆に自分がみんなから受け入れられないのを自分の趣味のせいにしたり(「ソーシャル・ネットワーク」には「あんたが嫌われるのはオタクだからじゃない、あんたが嫌な奴だからよ」みたいな名言があるらしいですね)することだけは絶対にしたくない。そしてそういう意識をツイッターで共有し育むような真似はもっとしたくない。その対象への愛情と誠実さをもって皮肉に帰してしまわない力のある文章を書きたいです。それが文化を楽しむってことだな、と。しかし今それがうまくいかなくて、でもうまくいかないからといって書くのをやめるのは絶対に嫌で。

なんか超エモいこと書いた。基本頭すっからかんの人間なので、悩んではいませんが。やっぱりこの状況を打破するには「キック・アス」の2回目観て、クリスマスに午前十時で「アパートの鍵貸します」を観るのが一番だと思ったお!