ヤング≒アダルト

ラストを踏まえた上での話をしています。が、個人的にはネタバレとかない映画だと思います。

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大好きなジェイソン・ライトマン監督の最新作。しかも、彼のフィルモグラフィの中でも特に思い入れがある「JUNO/ジュノ」の脚本家、ディアブロ・コディとの再タッグということで、たいへん期待して観た。痛快で逞しい女子映画だった「JUNO」と比べるとモヤモヤした後味が残るけれど、前作にも増して磨きのかかったライトマン演出は存分に楽しめるし、ディアブロ・コディの作家性みたいのも見えた気がする。

ディアブロ・コディにとって、「90年代」はいろいろな意味で特別な時代なのだと思う*1。何せ初っぱなから主人公メイビス(シャーリーズ・セロン)はTeenage Fanclubの91年の曲、The Conceptを繰り返し聴いているのだから。高校時代の彼氏から貰ったミックステープに入ったその曲をテープが擦りきれるほどリピートする彼女は、37才になった今も輝いていたあの時代の記憶から脱け出せていない。そのことを瞬時にわからせるあのアヴァンタイトルはすごく秀逸だった。「JUNO」では未だに90年代を引きずり大人になりきれない男=マーク*2をばっさり斬って、この映画が若い世代の物語であることを宣言したディアブロ・コディだけど、本作では逆にそんな90年代に囚われた人間を主人公に据えている。彼女の中にはやっぱりジュノもマークも存在するんだろう。

なんてことを思っていたら、ふと「これは『JUNO』を反転させた映画なのでは」という考えが浮かんできた。「JUNO」では主人公が妊娠という思わぬ体験を経ても最初から最後まで自分らしさを貫く姿が誇らしく見えるけれど、本作では主人公が同じ自分であり続けるという点は変わらないのだが、その「変わらない」ことはむしろ「変われない/大人になれない」こととして観客に受け止められる。もちろんジュノとメイビスでは性格も境遇も年齢もまったく違うから一概に比較はできないのだけれど、どちらも(本当は)既に自分というものを持っているということは言えるだろう。でも物事の評価は何だって簡単に引っくり返ってしまう。ジュノの変わらなさだって実際は賛否わかれるのではないだろうか。後にも書くことだが、これは「視点」や「見方」についての映画でもある。一人の女性がある出来事を経験して、また同じ自分に戻っていくという大まかな型は一緒だが、ポップなノリの「JUNO」に対して本作はどこまでも苦く痛々しい。

イトマン監督は前作「マイレージ、マイライフ」で一気に苦みの描き方の秀逸な作家になった。あんまり見事に描くものだから当事者じゃないこちらまで胃がひきつるようなかんじを味わうほどなのだが、その苦みというのはザラザラとささくれたものではなく、すごく洗練されている。本作では、その描き方がいよいよ絶品の域に達してきた。苦いのに絶品だなんておかしな話だけど、本当なんだからすごいとしか言いようがない。全体の仕上がりはとても端正なのだが、心を抉られる鋭さが確かにある。

とりわけ、メイビスの故郷での浮きっぷりを冷徹なくらいはっきりと撮っているのがいい。シャーリーズ・セロンの美しさは田舎町のちっぽけなバーには明らかに不釣り合いで、かえって居たたまれなさを呼んでいる。都会的で洗練されたファッションもここではただ痛々しい。着飾れば着飾るほど、メイビスと町の人々との断絶が明確になる悲哀。一方で町の人々も別に素敵には見えなくて、メイビスが運命の人と信じてやまない元彼のバディ(パトリック・ウィルソン)も実際はよくいる疲れたお父さんだ。ライトマン監督は誰のことも美化して撮っていない。だからこの映画はこんなに苦いんだろう。「あの頃は最高だった」とメイビスは言うけれど、この映画に「あの頃」を回想する場面はない。素敵な過去という拠り所なんて本当は誰一人として持っていなくて、あるのは現実だけなのだ。

本作はそんな「当たり前のこと」を知る映画とも言えるかもしれない。メイビスはある事件によって完全に打ちのめされるのだけれど、結局そのままの自分を肯定してくれる味方を見つけて、自己を省みないまま映画は終わる。この何も解決していないラストは賛否両論あるだろうけど、私は普通望まれるような反省→成長の物語から決別しているのをすごく好ましく思った。故郷の田舎町はメイビスには耐えがたいし、町の人々の憐れみを彼女は欲していない。素敵な過去に寄りかかることもできないとわかった。だったらもうどうしようもないわけで。自分の居場所は結局自分でしか見つけられないもの。見方が変われば、評価も変わる。だから私を可哀想なんて言ってくる他人から差し出された善意とやらは役に立たないし、そもそも反省も成長も必要あるの?と突き放すディアブロ・コディは流石だなあと思う。

確かにメイビスはまったく変わらなかったし、それ故にたぶんこれからも失敗を重ねるだろう。けれども、最後の彼女はもう戻れない場所に戻ることができるかのような夢は見ていない。成長はなくとも決別はしている。だとすれば、これは決別の映画でもある。田舎町を出て都会に舞い戻るメイビスの姿は少しもかっこよくなく、水溜まりですっ転んで逃げ帰るように泥臭く弱々しいけれど、私が私のまま勝つためにはまずはこうやって自分自身に戻ればいいんだと言ってみせた本作はとても誠実だと思う。

そしてこの「自分自身に戻っていく」というのはライトマン作品すべてに共通する要素とも言える。ライトマン作品の主人公は皆周囲と少し違っていて、それ故に嫌われ者だったりするが、映画はそれを決して否定しない。安易な自己肯定はなく、必ず何かしらにぶち当たるけれど、最後にはまた自分らしくスタートを切る。また、彼らは皆ある一定の人々にとって「これは自分だ!」と思える存在でもある。そんなどこかで見たことのある人々を、彼らの目線に寄り添いつつもベタつかない客観性でもって掬い上げていくライトマン監督のスマートさと誠実さがすごく好き。だからこそ彼の作品はいつも誰かにとっての「僕/私の映画」 になるんだと思う*3。次作以降、ライトマン監督がどんな人々を掬い上げ、どんな物語を描くのか、ほんとに楽しみでしかたない。


※それにしてもメイビスは他人からの善意を受け取らないかわりに他人に善意を差し出すこともなくて、そのあたりは徹底してるなと思った。傷を舐めあったマット(パットン・オズワルト)のこともやっぱり置いていくのだから。高校時代いじめられっ子だったマットはメイビスとはまったく違う事情から過去に囚われているのだが、正反対ながら過去を脱ぎされないという一点のみにおいて共通する二人が連帯していく過程が痛々しくも愛おしくて、すごく好きだった。役者は皆よかったけれど、一人選ぶとしたらパットン・オズワルトだな。

*1:彼女自身の青春時代が90年代だからだろう、ちなみに監督のライトマンも同じ世代

*2:93年をロックの黄金期と言い、Sonic Youthを愛する男

*3:かくいう私も「JUNO」は自分の映画だと思ってる