名作映画二本雑感

相変わらず顎の調子が悪いです。だからってわけじゃないけど短めに書きます。


市民ケーン

市民ケーン [DVD] FRT-006

市民ケーン [DVD] FRT-006

ここしばらく所謂「名作映画」を観てないなーと思って、DVD借りて観てみたんだが、これが超弩級の傑作すぎて度肝抜かれてしまった。何これ、なんでこんなおもしろいのこれ。多層的な語り口や時間軸を飛び回る鮮やかな編集、美しい円環構造にうっとり。これを20代半ばで作ってしまうオーソン・ウェルズの頭の中はどうなっているんでしょうか。

フィンチャーのオールタイムベスト26本にも入っているそうだけど、この映像へのこだわりようを見ればそれも納得。ロングショットにおける画面構成の美しさや照明が生み出す見事な陰影にはただただ見とれるしかない。そのすべての画・すべてのカットに隙を作らない貫徹した美意識は稀代の映像作家たるフィンチャーのそれと通じるだろう。雨模様の空をくぐり抜けカメラがナイトクラブへと入っていくカットは「パニック・ルーム」の縦横無尽なカメラワークを彷彿させるし、フィンチャーは本作からかなり影響を受けたんだなと今さらながら思う。

実際「ソーシャル・ネットワーク」に至っては、フィンチャー自身が「ジョン・ヒューズが撮った『市民ケーン』をイメージした」とその影響を語っていて、類似点もいろいろ見られる。まずもってして、この2作はどちらも「あるメディアによって一時代を築いた男」の物語。「ソーシャル・ネットワーク」ならFacebookで、「市民ケーン」なら新聞である。よくアメリカは、ヨーロッパ諸国(特にイギリス)との差別化を図るために「階級がない国」と言われる。ということは国民はみな平等に大衆であり、アメリカ文化とは大衆文化と言えるかもしれない。大衆文化と多くの人々に情報を発信するメディアとの関係は深い。ラジオやテレビがアメリカ文化においてどれほど重要な働きをしたかは言うまでもないだろう。だからメディアを描くということは、アメリカを描くということでもあると思う。「市民ケーン」の主人公ケーンは「アメリカ国民の代表として私は新聞を発行する」と言った。もちろんメディアは必ずしも国民の意見を反映するわけじゃないし、支配的な層に都合よく情報を発信することも多い。けれども、そうしたことを引っくるめてメディアはアメリカを映し出す、というよりも作っていく。そんなアメリ大衆社会におけるメディアの重要性がこの映画には描かれているんじゃないだろうか。


ブレードランナー

こちらはほんと簡単に。めっちゃくちゃ好みの映画だった。画面いっぱいに漂う色気、艶。これさえあれば私はだいたい満足する。リドリー・スコットの映画をちゃんと観るのは実は初めてかもしれないのだが、この監督は「物語る人」というより「世界を構築する人」なのだなと思った。本作の猥雑でギラギラした近未来の都市風景を生み出したヴィジュアルセンスは凄まじい。スタイリッシュではないのにかっこいいというアンビバレンス。徹底して昼を避け、夕暮れか雨の降る夜だけに舞台を限定しているこだわりっぷりも気に入ったポイント。何度も言ってることだけど、「これを撮りたい!」が徹底している監督が好きなのだ。そして何より「向き合う男二人」をこんなに色っぽく撮る映画を好きにならないわけない。ハリソン・フォードの低く渋い声もたまらないが、やはりここではルトガー・ハウアーの狂気じみた色気を挙げておく。彼の最後のセリフはこれまで観た映画の中でも特別な美しさを誇っていると思う。もう一つの名言「二つで十分ですよ」も聞けたから大満足だな。