ドラゴン・タトゥーの女

デヴィッド・フィンチャー監督最新作。前作「ソーシャル・ネットワーク」から約一年ぶりの作品だが、フィンチャーの新作をこのペースで劇場で観られるのはとても嬉しい。ただ今回は原作未読/スウェーデン版映画未見で変に期待とイメージだけが膨らんだ状態で観てしまったのがあんまりよくなかった。まあそれは私の事情であって作品の評価とは無関係なのだけれど。

真っ黒なイメージが画面を這うように動く「これぞフィンチャー!」なタイトルバック(リスベットの悪夢をあれだけスタイリッシュに見せてしまう流石のセンス!)でのっけから観賞者の体温をはねあげ、そのままミカエルの裁判、リスベットの調査、そしてヴァンゲル家の寒々しい風景まで一気に持っていく情報処理の異常な手際のよさ、スピーディーさには相変わらずまいってしまった。フィンチャー作品の「速さ」を体験するのは快感でもあるけど、毎回頭がショートしそうにもなる。しかしどの作品でも映画についていくのが大変なストレスなんてのはほとんどなくて、速さに浸る気持ちよさがそれを上回る。特に今作は文庫で上下巻あわせて800ページほどある原作の内容を2時間半に収めるということで、フィンチャーの筆さばきが見物だった。が、これは後にも詳しく書くけれど、今回ばかりはその余りに無駄のない手つきに少し物足りなさを感じてしまったのだよなあ。

冷たい雪と風の吹きつける孤島に居を構える名家ヴァンゲル家で40年前に起こった少女失踪事件。その真相を明らかにすべく、ジャーナリストのミカエル・ブルムクヴィストが雇われる。その一方で並行して描かれるのは、髪を短く刈り込み、全身ピアスとタトゥーだらけの非社交的な女、リスベット・サランデルの過酷すぎる日常。

見るからに寒そうな凍てついた景色や徐々に明らかになる事件の凄惨さからは同監督の「ゾディアック」や「セブン」を思い起こしたりもする。けれども、この2作にあった「見えない怪物」を追いかけているような不穏さは今作にはなく、あくまで原作のタイトルである「女を憎む男たち」との対決をわかりやすく且つ鮮やかに描き出すことを目標としたのだろうなーと原作未読ながら思う。そしてその対決を簡潔に図式化すべく、小柄な身体を厳つい装いで護りMac一つでミソジニスト達に立ち向かう天才ハッカー=リスベットをヒロインとして、彼女が類稀な能力で「悪いヤツら」をやっつける痛快な活劇に仕上げたのでは?という印象を、特にリスベットの物語の比重が大きくなる終盤において抱いたりもした。

ルーニー・マーラによるリスベットは、スウェーデン版でノオミ・ラパスが演じた力強い瞳を持つリスベット(本編は観ていないのでポスターからの印象)よりも華奢でナイーブなかんじがして、自我がまだ完成されていない「少女」という趣が強い。ストーリーも後半はそんな不安定な少女がもがきながら何かを見出だしていくまでの物語とも見れるし、やはりこれはリスベットの映画なのだろうと思う。シリーズのタイトルである「ミレニアム」でも「女を憎む男たち」でもなく、「ドラゴン・タトゥーの女(The Girl with the Dragon Tattoo)」を冠したのは、そういうわけなんだろう。これまで多くの「男集団」を撮ってきたフィンチャーにとっては珍しい「女」の映画。

ただリスベットの物語として映画が動き出すのは遅くて、前半はむしろミカエル主導で展開する。逆に後半、ミカエルとリスベットが出会ってからは、ミカエルのキャラクターは演じるダニエル・クレイグ自身の魅力をそのまま置き換えて造形するだけで、リスベットに主導権を渡しているように見えた。このへんの話の転換もさすがに巧いのだけれど、しかしそれではやはりミカエルの魅力は十分に描かれないのではないかと思う。もちろんダニエル・クレイグは申し分なく素敵だし、役者の魅力をキャラクターにトレースするのも普通に行われていることではある。でもそれは一つの手法であって、「これさえやっておけば、あれは十分説明したことになる」っていうものではないんじゃないの?という疑いが湧いてしまった。

フィンチャーの、必要な情報を的確に選びとって並べる編集のスムーズさは今回も光っていて、先述したミソジニスト達との対決の図式化であったり、「女を殺したやつを捕まえたい」の一言だけで表現された作品のテーマであったり、ミカエルとリスベットの後見人の対比であったり、随所に巧さが見えて感嘆するのだけれど、同時にテクニックとしての描写が多く感じられ「一を見せて十をわからせる」的な手法の多用が物語のコクやエグさを薄めてしまっているのではないかと感じた。フィンチャーは元々「いかに語るか」を重視したヴィジュアリスト監督であるし、私はいつもそれを楽しみにしているのだが、初めて「この気持ちのいい流れが止まるとしても細かな描写がほしい」と思った。それは長い原作を過不足なくまとめる難しさでもあるかもしれないし、「手段を究める」ことが頂点まで達してきていることを表しているかもしれない。

今回は自分自身、やけに事前情報があったり、見落としがないようかなり構えて観たりして、観賞状況はいいほうではなかったとは思う。フィンチャーが「いかに語るか」をここまで成熟させているんだったら、無理に神経を集中させて観るより、最初から最後まで無駄のない構築美とそれをさらりとやってのけるフィンチャーの貫徹したクールネスに気持ちよく酔ってしまえばよかった。今度はそうやって観たい。そんな気持ちは観賞直後からずっと感じている。



【書くの忘れてたので追記】

あの切ないラストシーンはオリジナルにはなく、フィンチャー版で新たに付け足されたものだそうだが、このことからなんとなく思い出したのは「ファイト・クラブ」のこと。あの映画もラストは原作と異なっていた。もちろんラストシーンを変えるというアイディアがフィンチャーのものであるかどうかはわからないけれど、この2作のラストを見ると、彼は常にクール且つフラットな視点で対象を撮る一方で、「誰かが誰かとコミュニケートするために手を伸ばす瞬間」を(その思いが届くにしても届かないにしても)好んで撮っているように見える。あらゆる呪縛や悪夢、陰惨な出来事をくぐり抜け、純粋な一人の人間として誰かと向き合おうとする――フィンチャーの映画はとても情報量が多いけれど、それらを剥ぎ取った核の部分では、このようにごくシンプルで普遍的な人間の姿、最小単位のコミュニケーションを描こうとしているように思う。そしてその核の部分は一つの物語を突き詰めた末のラストシーンにおいて露になる。その不意に現れるまっさらな光景は、なんだかんだ言ってもやっぱり好きだ。