ブレックファスト・クラブ

以前からオススメいただいていたので、DVDレンタルして観た。傑作である以前にものすごくパーソナルな部分をついてくる映画だった。

数々の青春映画を手がけたことで知られるジョン・ヒューズの1985年の代表作。それぞれに問題を起こし、休日の土曜日に学校に呼び出されて作文を書かされるはめになった5人の高校生の、一日限りの交流を描く学園コメディ。

数多くの学園映画を観ればわかる通り、アメリカのスクールヒエラルキーはとても強固で厳しい。階層の違う生徒同士が友だちになることはまずありえない。ここに出てくる5人の高校生もそれぞれ所属する階層、グループが違う。ガリ勉。スポーツ馬鹿。お姫様。不思議ちゃん。チンピラ。本来ならまったく仲良くなることなく卒業していってしまうだろう5人。そんな彼らがたまたま土曜日の学校に集まり、初めてじっくりと顔を付き合わす。

アメリカほど過酷ではないにしろ、日本にも、ある種のスクールヒエラルキー、イケてる奴とイケてない奴の分断は確実に存在する。教室に入った瞬間にわかる、仲良くなれる人、なれない人。ちょうど8ヶ月くらい前まで私がいた世界――そんな少し遠くなりかけていた思い出が呼び戻されて、しばらく記憶の深海を漂ってしまったよ。私があそこで遠ざけてきたもの、できなかったことを認識させられて胸がきゅうっと締め付けられた。

感想は観た人によってもちろんそれぞれ異なるであろうが、同時に高校時代を経験した人であれば誰しもが身に覚えのある感覚がこの映画には描かれていると思う。

例えば、こんなやりとり(若干意訳)。
――友だちの言いなりなんてうんざり
――じゃあどうして言いなりに?
――わからない

これは学校のアイドル的存在であるクレアが友だち付き合いに疲弊して発した言葉。いかにもお姫様扱いを受ける女の子らしい発言で鼻につくと感じる人もいるかもしれないが、しかしこの言葉のもつ切実さはきっと誰でも共感するところじゃないだろうか。誰だって、自分はほんとはこうじゃない、こうしたくないと思いつつ、相手に求められるままに振る舞ってしまう経験があるはず。他人が勝手に自分をどんな人間か決めつけると同時に、自分自身が自分を型に押し込めていく。高校生というのは、そういうことをする時期なのだと私は思う。役割を覚えるというのはまさしくそういうことなわけだし。「ほんとの私/僕はこうじゃない!」を訴える青春映画はいろいろあるけれど、ほんとの私じゃない私像を作るのに自分も加担していること、その作られた「私」でいつづけなくちゃならないというプレッシャーは内外からきていること、そしてそこから生まれる苛立ちを、決して説明的でない必要なだけの会話でもってこれほど切実に捉えた映画はそうないだろう。

そして、この映画のキーになる、図書室の床に5人が座り込んで自分がなぜ呼び出されたのかなどを話し合う場面では、そんな彼らの苛立ちが交錯し、ぶつかり合う。「本当はこうじゃないのに」の苛立ちは、所謂落ちこぼれとか不良と言われる子たちだけのものじゃなく、誰もが一度は感じるもののはずだ。それを「みんな悩みを抱えている」といった言葉で片づけずに、ぶつけ合うことで共有していく、5人はそういう意味で「友だち」になる。

胸が苦しくなるほどの切実さに自分の高校時代を思い出して泣けてきたりもしたけど、同時に5人の高校生が階層の違いを越えて交流を果たすこの映画にはやっぱり夢を感じた。それは未来への希望・可能性という意味でよりも、ほんの一日だけの幻のようなできごとという意味での「夢」。唐突に始まるダンスシーンから不思議ちゃんアリソンの一日限りの変身*1までの一連の流れはどことなくファンタジックだった。月曜日からはきっと今までと同じ毎日が始まる。でも彼らの心にはこれまでとは違う感覚が残っているはずなんだよね。

*1:あの変身は一時だけのものであって、アリソンは自分を他人によって変えられてしまったわけではないと思う。あそこで重要なのは、クレアがアリソンの肌に触れ「女の子同士の交流」がなされた点だ