ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

ダークナイト」や「ノーカントリー」と並ぶ2008年の傑作、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」をようやく観ました。確かにこれは、すごい。まずはその一言しか出てこない。「パンチドランク・ラブ」に続き、ポール・トーマス・アンダーソン監督作品2本目の観賞。このときまだ30代だっていうんだから、世の中不公平にできてるねえとか云々かんぬん。

とても多面的な魅力をもった作品なので、語るのが難しい。話自体は「1920〜30年代のアメリカで石油採掘により財をなしたある男の一代記」と簡潔に言い表せなくもないが、この映画が描くのはそうした「成り上がり」「アメリカンドリーム」的なもの(とその裏にある資本主義社会の闇とかなんとか)ではない。重厚だけど鈍重ではなく、どこか軽やかさやしなやかさも感じさせる。全編を覆う不気味なユーモアは笑ってよいのか何なのか。ラストシーンは観ていて顔がひきつったよね。いや、それが最高なんだけど。感想を書く際にはポイントを一つに絞ったほうがよいのだが、未だにそれができずにいる。そういうわけで、以下はだいぶ散漫な文章になると思うけれど(イツモノコトカー)、雑感をつらつらと書き連ねていこう。

観ていて特に印象的だったのは、主人公プレインビューの背景がまったく描かれない点。途中、腹違いの弟を名乗る男が現れはするが、プレインビューがどのような家に育ちどのような人生を歩んできたのかは語られない。また彼は石油のためならば何でもしてしまう人間だが、彼がそこまでして石油を掘る目的、野望のようなものも見えてこない(のはあくまでこちらの感覚として、だが)。彼はただ、映画が始まった瞬間から大地を掘っていて(ここすごく重要なのだと思う)、それを脅かすものとは徹底して闘う。だいたいの人間が考えるような「石油で一攫千金して豪邸に住んで……」みたいな夢(要するにアメリカンドリーム的なもの)を彼は持っていないのだ。

そして、そういうわかりやすい背景がない故に、ダニエル・プレインビューは怪物的なのだと思う。目に見えないモンスターが画面の中でうごめいているような、あるいはプレインビューを演じるダニエル・デイ=ルイスの美しくしなやかな身体に何かが潜んでいるような、そんな「怪物感」にゾクゾクする。デイ=ルイスの演技の力ももちろんとてつもなく大きい。怪物を見事に飲み込んで一体化してしまっている。プレインビューのこの「怪物」というのは、彼が石油事業で成功して金持ちになったから生まれたもの、要するに「金を持つと人間変わる」的なものではなくて、最初のあの金を掘り当てる瞬間から彼の内にあったものだと思うけれど、月日を追うごとにそれは確実に大きくなっていって、あらゆるものを飲み込んでいき、そして最後には……というこのクライマックスが壮絶だった(同時にすごく笑えた)。この怪物が大きくなっていく過程が、デイ=ルイスの身体つきは全然変わっていないはずなのに、彼の身体から何故だか感じとることができる。これがとにかく痺れたところ。ほんと凄まじかった。

そう、あと終始強調されていて気になったのは、プレインビューの息遣い。ここから考察を広げていけばきっとおもしろいのだと思うけど、今は自分なりに「こう」というものがなくて、どこで書けばよいかわからないから、ここでメモとして記しておこう。あれもやはり、「モンスターの息遣い」というかんじがした。目には見えないけれど、呼吸で感じられるという。

カルト系キリスト教会の牧師(神父?)イーライを演じた、ポール・ダノの演技も素晴らしかった。こちらはとにかく身体や表情の動きで見せる。なんとなくで書くけど、これはつまりイーライの内には「怪物」がいないから「動き」で誤魔化しているということのかもしれない。イーライは自分を神の使いというけれど、実際には神の名の下に村人たちから金をとっている、「神を利用する」男である。「偽者」である彼は、大きなアクションによって人々を騙すしかない。ポール・ダノの過剰に過剰を重ねたような演技からも、それは伝わってくる。ところで、プレインビューとイーライのやりとりはなんであんなに笑えるんでしょうね。プレインビューがイーライを油溜まり(水溜りならぬ)的なところに引きずり込むシーンなんて、劇場で観てたら必死に笑い堪えていただろうなあ

台詞は少なく、一つ一つをじっくり見せていくつくりで、長尺なわりにはミニマルな作品でもある。しかし、その150分を超える長さのうちにまったく弛緩を感じさせず最後まで緊張感を保っている。これは撮影や音楽によるところも大きい。撮影はロバート・エルスウィット。「パンチドランク・ラブ」の撮影監督でもあるそうだが、あちらは時折青い光が瞬くのがとても印象的な映像だった。こちらは暗い場面が多く、闇を活かした撮影で、油田が燃えるシーンの迫力となんともいえない美しさが素晴らしい。「ザ・タウン」の撮影もこの方だったのだなあ、ふむふむ。ジョニー・グリーンウッドによる音楽はひたすらに不穏で、劇伴としてはちょっと主張が強すぎるくらいに耳にこびりつく。打楽器がすごく印象的。これは「パンチドランク〜」の音楽にも感じたこと。

先述したようにこれはとても多面的な魅力を持った作品なので、作品を語る切り口はいくつもあるし、事実いくつかのレビューを読んでも、それぞれ視点が異なっていておもしろく、そのすべてに影響を受けたんだけど、そうやっていろいろ読んで考えてみて特に強く思ったのは、大地を母体のように見ているのだろうなということ(てことで以下は信頼する姉さんの考察からの援用多数)。大地=母という見立て自体は別に特別なことではないけれども。There will be BLOODのBLOOD(血)が意味するのは当然石油であるわけだが、これはこの石油という血によって繋がった家族の話というかんじもする。プレインビューは人間嫌いな男だけれど、その一方で誰よりも「家族」というものを重要視していた。HW(息子)やヘンリー(腹違いの弟)とのやりとり(これがたいへんにエロティック)を見ればそれは明らかなこと。全体に血(や血による繋がり)のイメージがべっとりとまとわりついていて、ねっとりとした艶が画面を覆っている。それで、そうだ、あの冒頭の原油がカメラにびたっとつく場面。これも書き記しておかなくては。あのシーンは鳥肌が立った。

石油も、プレインビューがHWにむりやり飲ませるミルクも、母なる大地の恵みというか、母の身体の一部やそのおかげで生まれたもの。そう考えると人間は誰しも大地という母の血によって繋がっているような気もするわけだが(そういう大地讃頌系の映画ではないですよ、もちろん)、プレインビューがすごいのは、母なる大地のお恵みを享受しますなんてレベルではなくて、大地を支配し犯し破壊してしまうところだと思う。人間対大地ってね……プレインビューの怪物性ってつまりそういうことなのかなと感じたりもする。そしてこの大地を支配するという暴力性や欲望がアメリカを動かしてきたもの、アメリカの暴力ってことになるんだろけど、じゃあプレインビューは「悪魔」なのかというと何だかよくわからなくて。金銭至上主義的な価値観が云々という見方をするならば、むしろ汚いのはイーライのほうだったわけで、プレインビューは金儲けのために石油採掘の事業をしているようには見えないし、彼の「掘る」ということに対する欲望はある意味極めて純粋なものだった。そんなことを考えると、とても深い映画だなあと思うけれど、実際は深いようでいてけっこうあっけらかんとした作品のような気もして、だからこそこの作品はどこか捉えどころのない、言葉にしがたい魅力を持っているのだろう。

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド [DVD]

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