SUPER 8/スーパーエイト

公開直後から賛否両論の本作。なんとなく自分は否だろうなーと思っていたので、そのわりにはかなり楽しめて満足なんだけれど、やっぱり引っかかるところはあるよね……ってことでそのへんを中心に少し。

各所で言われている、スピルバーグ作品へのオマージュというのは、おそらく監督のJ・J・エイブラムス自身意識的にやったことで、そうした旧作からの引用もたぶん(というのは私あんまりスピルバーグ映画観たことないから)いろいろしているんでしょう。全体に80年代的な(これもまだ私生まれてない時代の話だからな)懐かしい匂いが染み込んだノスルジックな作品。でも、だから引用ばっかりで新鮮味がないとか既視感んぬんとか、そんなことが言いたいわけではなくて。既存のイメージをたくさん使う、それ自体は全然問題ないと思うんだけれど、いかんせんその使い方が雑すぎるんじゃないかという、それが引っかかったところ。

この映画には、過去の映画(とりわけスピルバーグ作品)で作られたイメージを引き出す、あるいは過去の映画を思い出させる、いろんなモチーフが使われています。例えば、「郊外」とか「片親」とか、劇中で流れるナックのマイ・シャローナもそうかもしれない。でも、そうした個々のモチーフがあまりに記号的すぎて、物語が無機物になってしまっていると感じた。それぞれが話の上にきれいに配置されてまとまってはいるんだけど、物語にしっかり根を張って有機的に機能するところまでいっていないというか。本当にただモチーフが整理して置いてあるだけという印象で、一つ一つをこの物語に合わせて彫り込んでいくという作業がほとんどなされていないように思う。

それなしでは、もうどこまでイメージが膨らむかは個々人の映画経験や想像力(これはイメージが膨らむ人のほうが想像力があるということじゃないです、どんな条件でどんなふうにイメージが膨らむかは人それぞれでしょう)にすべてお任せになってしまう。もしかしたら逆にそれが狙い(この映画のターゲット層である子供たちはものすごく豊かな想像力を持っているし)なのかもしれないけれど、それにしたってこの切って貼ったパッチワーク感はなあ、とほとんどイメージが膨らまず、記号は記号にしか見えなかった人間からすると思うわけです。

基本的に既存の映画のイメージというのは借り物であって、それを使うのであれば、その物語において必然であるようにしっかり練り上げてから取り込まないと、もうそれは本当に「記号」でしかなくて、人工的、無機的な印象になってしまうのではないでしょうか。例えば、「映画好きの子供たち」とか「母親を亡くした主人公」といった設定(モチーフ)も、それが物語に先行しすぎているというか、設定がでかすぎるので歪なかんじがしてしまう。物語が設定の回収に回ってしまっているようで、それゆえにどうにもプラスチックな印象が拭えなかった。

と、かなり辛辣なかんじで書いているけれど、実はけっこう楽しんだのです。作品の端々から映画愛が伝わってくるし、悪意や冷笑の一切ない意地の良さも素敵だと思った。

殊に子供たちのキャスティングが素晴らしい。みんないい顔をしてる。ぽっちゃり映画監督くんとか本当にいい子を連れてきたなあと思う。でも最強なのはやっぱりヒロインのエル・ファニング。あの透明感と凛とした佇まい。第一声から「SOMEWHERE」のときとはまったく違う演技をしてるんだってことがはっきりわかって軽く鳥肌たった。彼女のゾンビ演技はもうすごすぎて若干ひくレベルでしたね。いや嘘です、今回もハート射抜かれました。

そんなわけで、中盤までは予想に反してかなり楽しめて、「確かにちょっと既存のイメージに安易に寄りかかりすぎている気もするけど、いい映画じゃん!」と思っていたんだけど、終盤になって先述した無機物感というのが一気に表出してしまった。それでラスト20分くらいは首を傾げながら観てしまったのだが、最後の最後でそんなのも全部吹き飛ぶような素敵な贈り物があって、観了直後はすべてが素晴らしく思えてしまったというのが本当のところです。あれは…あれは反則すぎる。