レスラー

初アロノフスキー作品だった「ブラック・スワン」はさっぱりノレなかったけれど、この作品は哀切があっていいね。


公開当時、なぜか(というかまだ映画の知識がまったくなかったからか)この話を「家族の再生を絡めた感動のストーリー」と勘違いしていて、その後アロノフスキーが監督と知り、いやそんな映画になるわけないだろと思ったのだが、やっぱりそんな映画にはなってなかったですね。各所で「ブラック・スワン」との類似が言われているように、これも「日常や社会からはみ出した人間が、ステージ(リング)という現実から隔絶された場で己のすべてを投げ出して光輝く」話だった。アロノフスキーの「自分の肉体を賭け一線を越えてゆける人間」に対する憧れ、コンプレックスはすごいな。

で、「現実を超越して光輝く」という基本の部分は「ブラック・スワン」と同じなんだけれど、この作品がよかったのは、そこに至るまでのドラマ、主人公が現実の生活ではなくリングの上の人生を選ぶまでのドラマを、とても丁寧に描いているところ。一度はリングを捨て日常を取り戻そうともがくものの、結局主人公の居場所はリングの上にしかない、ということが、ドキュメンタリーのような撮影によって、次第に浮き彫りになっていく。特別にドラマチックな場面があるわけでも、これといった一大転機が訪れるわけでもないのだが、静かに淡々と主人公が置かれた日常を描き出していくことで、現実と主人公との間のズレを浮かび上がらせる。

特に印象的だったのは、「ブラック・スワン」でも多用していた、主人公の背中を映す1.5人称的な撮影。主人公が見る世界と世界を見る主人公を同時に映し、その二つのギャップを見せる。そこに哀切が生まれるよね。現実の世界じゃなくリングの上を選ぶ、それはとても哀しい悟りの物語。でもその先には現実を超えた救いがある。呪縛であり解放であり、それは表裏一体のものなんだよね。


主人公が現実をやり直すところで、父娘関係の修復を一つの軸にもってきたのがうまいなと思った。「父娘」というシンプルなモチーフを用いることで、主人公が現実や社会の枠組みからはみ出した存在であることをわかりやすく示している。「家族の再生」をこういう形で使うのはなかなかおもしろいです。一つひねりを加えることで、定番のモチーフも新しい表現ができるわけやね。

あと、ちっちゃく笑えるシーンがいくつかあったのが地味に嬉しかった。ミッキー・ロークがお惣菜売り場で働いてる!とか、ミッキー・ローク(じゃなくてほんとは彼が演じた主人公)に服のセンスがまったくない!とか。さりげないユーモアがさりげなく組み込まれていると楽しい。

評価の高いミッキー・ロークマリサ・トメイの演技は、個別に見てもどちらもよかったけれど、二人一緒の場面はさらに互いの魅力が引き出されていて素晴らしかった。特に二人でガンズ(でいいのかな?)を歌うシーンは、個人的にはこの作品のハイライトだと思う。役者のケミストリーが生まれる映画はいい映画なのだ。