シングルマン

ノーカントリー」感想はやはり時間がかかりそうなので、先に「シングルマン」感想を。

世界的なファッション・デザイナー、トム・フォードの初監督作にして傑作との呼び声高い「シングルマン」。昨年の日本公開時、とても楽しみにしていながら近所に上映館がなかったために観に行くのをあきらめたので、ようやくDVDにて観賞できることになり、とてもウキウキワクワクしていたのだけれど、正直あまりピンとこなかった。いや、悪い作品では決してない。むしろ、端正で非常に完成度の高い作品だと思う。でも、私には立ち入る隙のない話だった。最後まで物語に入っていけず、傍観しているような気分になった。

率直にいうと、このテーマをこのアプローチでやられると、今の私にはよくわからないということなんだけれど。これにはたぶん、年齢的な問題も関係している。人生の酸いも甘いも経験した主人公たちの心情に寄り添うのは、十代のガキんちょにはなかなか難しかった。ここで語られる意味での「死」や「孤独」について、私は考えたことすらなかったし。

今回は映画の中身について、少し詳細に説明する(嫌だったらとばしてください)。

舞台は60年代のアメリカ郊外。イギリス出身の大学教授である主人公ジョージは、おそらく40代〜50代の設定。彼は同性愛者で、16年連れ添った恋人ジムを交通事故で亡くしてから8ヵ月後、深い喪失感に苛まれ自殺を決意する。

当時のアメリカ、それも郊外で、同性愛者として生きるのは簡単なことではなかったはず。実際、周囲からの嫌悪の視線をジョージは感じている。隣家の旦那にはサソリに喰われてしまえと思われ、ジムの両親には息子の死を伝えたくもないと思われていた。ジョージがジムに「ガラス張りの家で暮らす覚悟はあるのか」と言う場面もある。これは、男同士の恋愛関係を他人に見られて大丈夫なのかと言っているのであって、この問いかけに対しジムは「カーテンをかければいい」と答えている。たぶんジョージは、マイノリティとして生きなければならない理不尽を人生で何度も感じてきた。それは彼の講義のシーンでもよくわかる。でも一方で、ジムとの甘い生活もあったはずだし、ジムがいたことで理不尽に屈することなく生きていけた面もあったのだと思う。ジョージの喪失感はそれゆえ人一倍大きい。

ジョージにはチャーリー(こちらは女性)という親友がいて、二人は若い頃(イギリスにいた頃)一緒にやんちゃをした仲だと想像できる。昔を懐かしむように二人で踊るシーンがあるし、実は元恋人だったりするわけで。チャーリーはジョージと別れてから、おそらく渡米後に、他の男と結婚し子供をもうけたが、夫婦生活は9年しか続かなかった。ジョージとジムの仲睦まじさに嫉妬し、ジョージへの思いを断ち切れていない。彼女はこんなような台詞を言っている。「若いときはアメリカに行けば勝ちだと思っていた、今さらイギリスには帰りたくない」。ここには一種の敗北がある。

この作品で描かれる「孤独」はすべてそういう孤独であって、生まれながらの孤独とは少し違う。それは、愛する人との別離の後の孤独であり、やんちゃだった時代を終え現実が見えてからの孤独であり、人生の苦みを知ってからの孤独である。喪失や敗北を経験して「独りになること」を受け止める、これがここに描かれていることだと思う。そしてこの「独りになること」というのは「死」へと繋がる。ここでの「死」は若々しく華やかな「生」と対比される関係にある。

こうやって文章におこしてみると私にもずいぶんと理解しやすくなるけれど、やっぱりここに描かれる死生観とか孤独というのは、私にはほとんど切実さの感じられないテーマ。別離も何も、一生を共にできるほどのパートナーに出会ってすらいない私に、その喪失なんか想像できやしない。「独りになること」を考えるにはまず、「独りでなかったときの経験」が必要なんだ。この作品を観てパーソナルな部分を強く刺激された人が多いのもすごくわかる。でも「私の物語」はなかった。

だから私としては、「ほつれ」がほしかった。物語に入り込む隙間みたいなもの。それは意図的に作られた入り口じゃなくてもいい。無意識に零れ出る美意識とか、一種の歪さなら何でもいい。でも、この作品にはとにかく「ほつれ」がなかった。観賞前は、もっと退廃的な、あるいはフェティシズム溢れる映画を想像していたけれど、実際には美意識だけが暴走するようなことはなかったし、トム・フォードの作る世界はひたすら完成されていた。この完成された美しさが、私にはちょっとしんどかった。端正であることが、むしろとっつきにくさを増幅させていたというか。本当に私には入り込む余地がなくなってしまって、どんどん物語との距離が広がるように感じた。

トム・フォードの演出はとても新鮮で細やか。例えば、ジョージの心情に合わせて画面の色調を微妙に変化させたりとか。そうして周囲の空気をわずかに暖め、震わせて、その熱と震えが観ている人間の心のひだを触れるか触れないかのところで刺激する。たぶん、多くの人が感想として述べた「切なさ」はこうやって生まれるのだと思う。でも私には、物語との距離がありすぎて熱も震えも届かなかったし、傍から見て物語の温度変化を察するしかなかった。不思議なくらい私の心は震えなかった。

もちろん、私と同じ年齢でも、この作品に心揺さぶられ涙する人もいるはずだし、最終的には好みの問題になってしまうのかもしれないけれど、ほんとに、物語に触れられた瞬間が私にはほとんどなかった。

とはいえ、美しい作品であることに間違いはない。初監督作でありながら、映像も細部まで丁寧に作り込まれている。背景を薄ぼんやり滲ませた画づくりがとっても素敵で、朝の住宅街や夜の浜辺など、なにげない郊外の風景がキラキラと輝いていた。ミッドセンチュリー風の衣装やインテリアにも、やはりこだわりが見える。しかしおもしろいのは、60年代の美しい風景の再現にかなり力を入れているのが感じられるのに、そこにノスタルジーがほとんどなかったということ。この作品には一種モダンでスタイリッシュな美が宿っている。それゆえ、最後まで凛とした画面の佇まいだったのが素晴らしい。

ただ、音や声はもっと減らしたほうがすっきりするのではないかなーと思った。間をたっぷりとって画だけで魅せるくらいのほうが、情感があったような。冒頭は声による説明(=モノローグ)が多すぎたし、ドラマチックな音楽も終始本当にドラマチックすぎて若干ベッタリした印象だった。この声や音の演出は、映像に比べるとちょっと理屈っぽかったかもしれない。逆に無音のシーンや雨音を効果的に使ったシーンはとてもよい。

役者陣は総じてよかった。みな危ういものを内に抱えつつ、それが外に漏れ出てしまわないよう抑えているような、やっぱり抑えられていないような、そんな際どさがある。この作品でオスカーにノミネートされたコリン・ファースの演技の素晴らしさはいうまでもなく、潤んだ瞳と震える口元が印象的だった。光が何重にも屈折し乱反射したような、ニコラス・ホルトの危険な笑顔もたまらない。しかし一人だけ選ぶとするなら、間違いなくジュリアン・ムーア。終始静かな作品に動きを与えていたのがよかった。男性陣のものとはまた違う艶やかさが円熟の輝きを放っている。

今の私にはいまいちピンとこない映画だったけれど、ある程度人生経験を積んだ10年後、20年後なら、きっと感想も変わる気がする。そのときを楽しみにして、またいろんな映画を観よう。

シングルマン コレクターズ・エディション [DVD]

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