J・エドガー

感想を書くつもりが、何やら得体の知れぬ文章になった……ネタバレ(?)はしてませんが、如何せん文章が長いのでけっこう内容には触れています

http://wwws.warnerbros.co.jp/hoover/

公開初日に観てまいりました。FBI=アメリカ連邦捜査局の初代長官ジョン・エドガー・フーヴァーの生涯を描いたクリント・イーストウッド監督最新作。素晴らしかった。


1924年に29才の若さで長官に任命されてから72年に77才で亡くなるまで48年もの間その座に留まり続け、仕えた大統領の数はクーリッジから数えてニクソンに至るまで実に8人。時にその大統領をも恐れさせた強大すぎる権力行使には多くの批判があった一方、当時としては革新的な捜査方法を取り入れ現代的な警察システムの確立に寄与した人物。また同性愛者/異性装者だったのではとも言われ、アシスタントのクライド・トルソンとは毎日昼食を共にしていたという――

不勉強なもので、本作を観るまでフーヴァー長官についてほとんど知らなかったのだが、いざ経歴を調べてみると、セクシュアリティの問題も含めて、彼ほど20世紀アメリカを語る上で重要な人もそういないように思う。しかもそのような人物の伝記映画を「アメリカを背負い続けてきた男」=クリント・イーストウッドが監督するとなれば、「アメリカ」というテーマに切り込むのは不可避なことだろう。そういうわけで、これは一種のアメリカの神話を描いた作品、もっと言ってしまえば、歪んだ形のアメリカンドリームの物語と言えるのではないだろうか。

勤勉に働き国家に忠誠を尽くして、国民に憧れられる「英雄」になりなさい。男らしく、強くあるのです。女々しい息子などいないほうがましなのだから――フーヴァーを強迫的なまでに愛国心に駆り立て、国家の保安のために尽くさせたのは、彼の母のこのような考えだった。こうした考えはおそらく当時のアメリカでは珍しくなく、ごく一般的な「愛国者」のイメージとして受け入れられていたものだろう(今でもそう思ってる人はきっといるだろうし)。逞しい身体と自由な発想力、そして勤勉さを備えた、志の高い男性。それこそ伝統的なアメリカの「英雄」像。そしてこれらを備えてさえいれば、家柄(階級)に関係なく必ず成功を手にできる。これぞアメリカンドリーム。アメリカとはそのように自由で、機会を均等に与える、美しく素晴らしい国なのだ、という愛国心ともこの「アメリカの夢」はリンクしてくる。

フーヴァーが目指していたのもまさにそうした理想的なアメリカ人男性、国のために働く「ヒーロー」だった。しかしその「ヒーローになる」という目標は己の内から湧いてきたものという以上に、外から求められたものであるように思う。彼の母だけではない。アメリカ社会全体が、そうした理想像を求めている。アメリカは自由な国。努力さえすれば成功できる。そのためには強くあれ。強くないものは落ちぶれる。そのような考えがおそらく幼い頃からフーヴァーの身には染み付いていたのだろうし、鏡に向かって'Be strong!!'と自分自身を鼓舞する場面などを見ても、それがある種の強迫観念になっていたのがよくわかる。成功しなくてはならない、逞しくあらねばならないというプレッシャー――表向きは希望に溢れたアメリカンドリームが夢は夢でも悪夢になる。このことを描いた作品は少なくないが、「J・エドガー」も言ってみればその系譜の一つ、「FBIのトップに君臨し巨大な権力を保持していたフーヴァー長官」は実はそうしたアメリカ的な理想と自己の狭間で葛藤していた一青年だったということを描いているのではないだろうか。

また多くの人が言及していることだが、「ソーシャル・ネットワーク」との類似点もいろいろあった。例えば、フーヴァーはたいへん早口な男で、他の人間にはない発想力と画期的なアイディアを持ち、犯罪捜査に革命を起こした(指紋で犯人を識別するとか、国民の情報を統合的に管理するとか、いろいろ)イノヴェイターだったが、それはまさしく「ソーシャル・ネットワーク」の主人公マーク・ザッカーバーグの人物像と重なる。また語り口や構成にも似たようなところがあって、過去を回想する形で話が進行する点、進行にあたって当事者ではない人物が介入する点(SNではラシダ・ジョーンズが演じた弁護士、本作では伝記のライター)、時間軸を縦横無尽に行き来する点など、「もしかしてイーストウッド、『ソーシャル・ネットワーク』を意識している?」と思わせるところがいくつも挙げられる。

ソーシャル・ネットワーク」もアメリカンドリームの物語の一つ、というかそのアップデート版・最新版である。ウィンクルボス兄弟(を演じたアーミー・ハマーが本作にも出演しているという符号!)のように家柄もよくなければハンサムで逞しい身体でもないが、インターネットという現代のテクノロジーを駆使し、自身のアイディア一つでザッカーバーグは億万長者となった。もちろん本作との間には数十年もの時間差があるので描かれる事柄には様々な違いがあるが(SNでは「逞しい身体」は必要なくなっている、とか)、もとを辿れば「自分の力一つで何事も成し遂げられる」というアメリカンドリームの精神が見える。片や既存のシステムにヒビを入れ新たな世界を構築した解放者で、片や国民を監視し管理するシステムを構築した権力者。でも、その二人の間にどれほどの違いがあると言えるのだろう。Facebookだって何億人ものデータを統合管理している。しかもアメリカ国民のものだけではない。ザッカーバーグが所謂「アメリカのいいところ」として持て囃されるアメリカンドリームの正の部分を体現しているならば、フーヴァーは負の部分を負っているけれど、その二つは表裏一体でしかないのだと思うし、自分が最近「アメリカ」に興味があるもので、こういう角度からこの作品を観てみたりした。


フーヴァーはアメリカの理想と自己の狭間で葛藤していたと言うならば、じゃあ実際の彼はどのような人だったのか。本作はフーヴァーのプライベートな部分、セクシュアリティについても描いているが、その描き方が何ともエレガントでよかった。フーヴァーは仕事上のパートナーであるトルソンと長年関係を噂されていて、事実よく一緒に休暇をとっていたというが、実際のところどれほどの仲だったかはわからない。ただ確実なのは彼ら二人の間に特別な絆があったということで、主演のディカプリオとアーミー・ハマーはその「特別な絆」を実にロマンチックに見せてくれていた。

いや、真剣な話、この二人が隣り合って座っているところをたいへんに可愛らしく、微笑ましく撮れたというのは、この作品にとって非常に大きなことだと思うのだ。理想を追求するために他を顧みず邁進し、故にどんどんと孤独を深めていったフーヴァーにとって、安息と愛を感じられるのはきっとトルソンの隣にいるときだけだったのだから。眉間の皺がいよいよ谷のごとくなってきたディカプリオ演じるしかめっ面のフーヴァーが、うっとりするほどハンサムなアーミー演じるトルソンの横では、かつてのように仔犬の微笑みを見せる。最近のディカプリオの過度な深刻ぶりを見てきたこちら側としてはこれほど嬉しい驚きはない。そしてあの表情を引き出したイーストウッドの手腕にも改めて唸らされる。ディカプリオ主演で、あの大統領をも恐れさせたフーヴァー長官を描いた作品が、こんなにも微笑みに満ちて幸せな気分にしてくれるなんてまったく予想していなかったから、そのぶん余計に私の心は満足感でいっぱいなのだ。

フーヴァーは同性愛者だったのか?異性装者だったのか?そうした点についてはそうだったかもしれない程度の描写に抑えているが、少なくとも先に書いたような「理想的な、強く逞しいアメリカの男」としては描かれていない。緊張状態に陥るとどもってしまい、女性との付き合いは苦手。しかし母は「女々しい息子など死んだほうがいい」と言う。成功のためには「男らしくある」ことが重要なのだ。フーヴァーのセクシュアリティを描くことは、アメリカとマチョイズムを描くことでもある。


ある余りにも理想を追い求めすぎる男の物語からアメリカについて巧みに描写した素晴らしい作品ではあるのだが、ただ批判意見にも納得できるものはいくつかあって、確かに物語の起伏やカタルシスに欠けるかんじはしたし、最後のまとめ方はちょっとバタバタしていてやや散漫だったと感じる。しかしそのようにある意味曖昧とも言えるような、さほどドラマチックではない展開を選んだのは、例えば「ソーシャル・ネットワーク」が「若くして成功した億万長者のスキャンダルを描いた作品」などと言われてしまうことがある中で、この作品をそうしたゴシップ的な見方、「ゲイ疑惑」であるとか「知られざる秘密」といった表現から避けるためだったのではないかなと思う。神話を解体するというのは暴露することではない。そういう優しさと丁寧さと誠実さがこの作品にはある。私がこの作品を好きなのは、その優しさ故なのだ。優しさでもってフーヴァーの人生を強迫観念や求められる男性性から解き放ち、ただただ暖かく包み込む。それが何とも感動的で、最後はもうひたすら涙が止まらなかったのだった。