明日、君がいない

映画「明日、君がいない」を観ました。

明日、君がいない [DVD]

明日、君がいない [DVD]

2年くらい前かな、テレ東の映画番組で紹介されていて、それからずっと気になっていた作品です。今まで観る機会がなかったんだけど、昨日ようやく観ることができました。内容についていろいろ考えたことを書きたいんだけど、とりあえずは作品全体の感想をざっくりと。

<ストーリー>

午後2時37分。オーストラリア南部の高校で誰かが自殺を図る。

その日の朝。弁護士を目指す優等生のマーカス、両親の自分に対する扱いに不満を抱くマーカスの妹メロディ、スポーツマンで人気者のルーク、自分たちは最高のカップルと信じるルークの恋人サラ、ゲイに対する差別に悩みマリファナに手を出すショーン、排尿障害によりいじめを受けるティーブン、6人の高校生がそれぞれに悩みを抱えながら登校する。

自殺するのは誰なのか、いったい何が原因だったのか…
(Wikipedia)

<解説>

2006年カンヌ国際映画祭をはじめ各地で絶賛された、オーストラリアの新鋭ムラーリ・K・タルリの初監督作。軸となる登場人物6人それぞれの視点からのエピソードとインタビュー映像を巧みに交差させ、痛々しいほどあやうい10代の心の闇を描く。タルリ監督は友人の自殺や自身の自殺未遂経験を基に、映画製作の知識もないまま19歳で脚本を書き上げ、2年の歳月をかけて完成させた。それぞれに深い悩みや問題を抱えた高校生たちの姿が痛々しい。
(シネマトゥデイ)

午後2時37分、自ら死を選んだのは誰なのか?この作品は、様々な闇を抱える6人の高校生の1日を描きながら、問題の時刻にいったい何が起きたのかを紐解いていくサスペンス的側面がある。だから、観ているほうとしても、いったい誰が自殺してしまうのかという疑問を頭の片隅にいれながら観ていく。しかし次第に、物語は6人それぞれの視点が絡んでくることで複雑になり、収束に向かうように思われない。2時37分に事件が起こるとして、いったい今が何時なのかもよくわからなくなる(映像は終始奇妙なほど明るいままだ)。そんな中、事件は突然起こる。あまりに唐突であっけなくてびっくりした。同時に、こういうことはいつだって突然に起こる、予測なんてつかないんだってことを再確認する。おそらく監督はこの唐突なラストのために作品の90分近くを捧げたんだと思う。このラストを導き出すために、こんな秀逸な方法ををとったんだと思う。誰に捧げたのかといえば、それは自殺してしまった監督の友人だろう。この友人の事件が、監督の作品を撮る原動力になったことは間違いなくて、それを思うとまた感慨深い。

映像は重いストーリーに反して白く明るく、音楽はクラシックを基調にとても穏やか。そのため重いテーマを扱いながらも、作品自体にはどこか浮世離れした感じがある。ドキュメンタリー風の青春群像劇という形式でありながら、どの場面にも死の気配が漂っていて、現世ではないどこかのような奇妙な空気に覆われている。この浮遊感は何なんだろう?どんなところにだって死は忍び寄ってくるってことだろうか。あるいはやっぱり、今は天界にいる監督の友人に捧げているからなんだろうか。どちらにせよ(どっちでもないかもしれないけど)、私はこのぼんやりと浮世離れした作品の雰囲気が好き。

コロンバイン高校乱射事件について描いた映画「エレファント」の撮影手法をベースにしているとWikiにも書いてあるし、実際かなり参考にしてる部分はあるんだろうけど(私は「エレファント」未見)、単に真似したってわけじゃなく、監督がこの手法を選んだのには絶対意味があって、それはやっぱりあのラストを見せたかったからだろう。この作品は「捧げる」作品だと思う。

ここから内容について思ったこと書く。
多分にネタバレするので未見の方はスルーで!










まず核心に迫る前に、主要人物6人について思ったことを。

6人のうち4人は男の子です。そして4人のうち3人は性的な問題を抱えています。この年代の子たちにとって、セクシャルな事柄がどれほど大きく重いものであるか。それは誰かのせいってわけでも、明確な解決方法があるってわけでもない。だけどどうにか和らげてやるくらいのことはしてやらなきゃならない。これはとても難しい問題だなあと改めて感じた。マーカスに関しては何と言ったらよいのかよくわからないけどねえ、彼自身だけに問題があるわけじゃないだろうってとこまで監督はにおわせてるよね。そしてルークとショーンの関係。実はルークもゲイだった。しかもおそらくルークとショーンは恋愛関係にある。かたやゲイであることをカミングアウトして差別され、かたやかわいい女の子と付き合いゲイであることはひた隠しにして人気者扱いされる。ここで真逆の選択をした二人のゲイの少年を出してきたのは大きいなあと思う。ルークは「人に言えないことってあるんだ。俺は絶対に言わない。」と言う(この作品では時折6人のインタビューが入る)。どんな選択を人生においてしていくか、それもまた重要である、と。しかもルークとショーンの関係は、冒頭で登校するルークに向かってショーンが「ルーク!」と呼ぶところでもうにおわせてるんだよね。

唯一性的な問題ではなく身体障害によるいじめに苦しむスティーブンは、しかし私には強い存在に見えた。彼は、校庭でフットボールをする同級生たちを見ながら、世界の大舞台で活躍する自分を夢想することを知ってる。実現しない望みでも、頭の中にはそんな立派な彼がいる。だから彼は強い。彼は自殺しないだろうと思った。同時にゲイであることをカミングアウトして自分と向き合っているショーンも死は選ばないだろうと思った。両親からもらった犬の話をする表情を見てもそう感じた。じゃあカミングアウトしてないルークかというと、彼も彼で、「ヘテロのふりをする」という重い決断下しているわけだし……。

女の子たちはというと、まずメロディーは違うだろうと思った。望まない妊娠をしてしまうけれど、「子供が大好きよ。」と語る彼女が突発的にお腹の子もろとも死なせるとは考えがたい。サラに関しては死を選ぶ要因が見つけられない。残るはマーカス?それも考えにくい。じゃあいったいこのうちの誰が死んでしまうの?答えはそんなところにはなかった。全然違うところで事件は起きた。

原題の「2:37」は、おそらく監督の友人が自殺した時刻でもあるんだろう。この原題には切迫した感じがある。この時刻を永遠に忘れないようにしようという思いを感じる。一方邦題の「明日、君がいない」には、原題とは違った意味での深みがある。「君」はとても漠然とした存在だ。「君」は誰だかわからない。「君」は誰でもない。死んだのは、「誰でもない」存在だった。様々な問題を抱えた6人のうちの誰かではなく、何ら悩みを抱えていそうにない女の子だった。ケリーというその女の子の名前は作品の最後になってようやく明かされる。「明日、君がいない」、「君」はいなくなって初めて確認される。いなくなるまで、彼女は誰でもなかった。私は基本的に、洋画の邦題は原題そのままか原題の直訳にしてほしいと思っているんだけど、この邦題に関しては、原題とはまた違った深みがあっていいと思う。

ある意味で主要人物の6人はスポットライトをあてられた存在だ。問題が表面化していなくても、彼らの抱える問題ははっきりしている。じゃあケリーの場合はどうだったかというと、何に悩んでいたのかわからない。マーカスは「彼女は幸せそうに見えた。」と語る。何ら不自由なく見える平凡な女の子が抱えるぽっかりとした孤独を誰も見つけてやることができない。監督自身、その友人の自殺は思いもよらなかったことだったんだろう。友人の孤独に気づけなかったことを悔いただろうし、彼自身その後自殺を図っている。しかし彼は、その気づいてやれなかったことそのものを作品に仕上げることにした。自殺した友人にスポットライトをあてた作品も撮れたはず。友人の名誉のためにはそのほうがいいのかもしれない。だけど彼は、あえて自殺した人物を誰でもない存在として描き、気づいてやれなかったこと自体をテーマにした。主要人物6人は全員彼女のことを知っていた。しかし誰も本当には彼女を知らなかった。作中で一番ケリーと接していたのはマーカスだけど、彼が一番ケリーを理解していなかったかもしれない。ケリーを「友人」だといったスティーブンでさえ、その視界にケリーは入っていなかった(おそらくスティーブンが監督自身ではないかと思う)。ルークは「時には自分のことだけで頭がいっぱいになって他人のことが見えなくなるものさ。」と言う(実はこの作品で一番いいことを言っているのはルークというのが素敵)。

それでまた邦題にかえる。「君」は誰だかわからない、けれど明日になってから誰だかわかるんじゃ遅い。明日、どこかの「君」がいなくなるかもしれないってことを忘れないでいよう。「2:37」に何が起こったかを忘れないでいよう。この作品には、「あの事件を作品にして絶対に伝えなくちゃいけないんだ」という強い意思を感じる。もちろん監督自身の才能も大きいけれど、この経験がなければ、彼はこれほどまでの作品は撮れなかっただろう。彼はこの作品のすべてをその友人に捧げているんだろう。だからこの作品にはマジックがある。このマジックに私は深く感動いたしました。