ザ・タウン

「土地の束縛」を主題にした物語は古今東西、数多く存在する。映画に限らず、小説でも歌でも。生まれ育った街からどうにか脱け出して、新たな人生を送りたい―――そう願うのはおそらく地方育ちの人間だけでなく、都会で生まれ育った人間もだろう。「自分」を形成してきた街とそこに暮らす人々との関係=コミュニティの閉塞感とそこからの解放は、実に普遍的なテーマである。このベン・アフレック監督2作目も、そうした街の束縛と解放を描いた作品だ。犯罪の温床として名高いボストン、チャールズタウンで生まれ育ち、父の代からの稼業である「強盗」で生計をたてる男がなんとか街を脱け出し、人生をやり直そうとあがく物語を綴った小説「強盗こそ、われらが宿命(さだめ)」を映画化したものである。映画版のタイトルは「ザ・タウン」。この正面切ったタイトルと同様に、作品自体も一切のギミックなし、ど真ん中直球の仕上がりである。

「ザ・タウン」というタイトルではあるが、カメラが焦点をあてるのは「街」そのものよりも街に囚われた「人々」だ。強盗から足を洗いたいと願う主人公。荒っぽく、強盗稼業に疑問を抱いていない主人公の親友。タウンの強盗一味を取り仕切る花屋の親父。それぞれにそれぞれの人生があり、みな深い関わりを持っていて、一人が街を出たいと思ってもその人間の意志だけで簡単に出ていけるものではない。簡単に街の人々との関係は捨てられない。それがコミュニティというものだから。どうしようもない閉塞感。たいていの場合は、この閉塞感を抱いたまま一生を終えるのかもしれない。しかし本作では、タウンの外からやってきた"トゥーニー(よそもの)"の女の登場によって、刺激が与えられ、膠着した状況が動き出す仕組みになっている。主人公は、ある「仕事」のときに不本意ながら仕方なく人質として誘拐した、その"トゥーニー"の女に惚れてしまい、彼女と共に街を出ようと考えるのである。さらにそこへタウンから強盗を一掃しようとするFBI捜査官が絡んできて、サスペンスとしても動き始める。さりげなくではあるが、「外」からの刺激によって動きのない街が変わり始める様子をうまく演出していると思う。

作品のつくりはとてもかっちり、きっちりしていて丁寧。非常に手堅い出来である。それゆえ、「どこかで見たことあるかんじ」とか「十年前の映画みたい」と言われたりもしているが、ここまで真っ向勝負の王道なやり方で監督2作目にしてこれだけ作り込めるのはすごいと素直に思う。しかし、少し固すぎる印象は受けた。作り手特有の「ほつれ」みたいなものがないのである。この「ほつれ」こそ映画に味わいを与えるものだと思うので、そういった意味ではもの足りなさも若干残る。

あまりいい評判を聞かないガンアクションとカーチェイスだが、あのせせこましい中でどうにかあがこうとする姿こそ、「街の閉塞感」を表しているようにも思える。あの狭く入り組んだ路地。その中で主人公達は懸命に警察から逃げる。あるいは終盤、警察に包囲される場面。囲まれて、逃げ場のない状態で彼らは闘う。確かに切迫感が足りず野暮ったさを感じるかもしれないが、あの複雑に入り組み出口のない、どんづまりの風景をこそベン・アフレックは撮りたかったのではないかと思う。ここまで言ってしまうのはさすがに褒めすぎか?しかし確実に言えるのは、全体に固さの見える本作におけるベン・アフレックの仕事の中で、ボストンという街に対する視線だけは、非常にナチュラルであるということ。「この街を撮ろう」と特別に意気込んでいるようには思えないが、カーチェイスのせせこましさなどを見ると、やはり街を熟知していることはわかる。

どんづまりの風景=ザ・タウンの反対、解放の象徴として時折画面に映り込むのが「空」と「飛行機」である。レベッカ・ホール演じる"トゥーニー"の女、クレアが主人公達から解放される場面、主人公がカフェでトイレに行ったクレアを待っている場面などで、晴れた空を飛行機が飛んでいくカットが一瞬だけ入る。あるいは主人公と親友が野球場へ行く場面でも、ほんの少し空が映る。土地に囚われた人間は地面から大空を眺め、旅する人々を羨むことしかできない。自由の象徴、空。一方で、カーチェイスの場面ではカメラは車高の位置にあり、地面を這うように撮っている。大味なようでいて、実は細かな部分まで作り込まれた作品と言えるのではないだろうか。他にも、"I'm sorry"のダブルミーニングなど、気のきいたセリフもある。

しかしこうした諸要素が絡み合い、映画にダイナミズムを与えるにまでは至っていないのは、あまりに律儀な構成ゆえとも言える。気のきいた要素をぽんぽんとバランスよく配置されただけでは、観ているほうも燃えることができないだろう。中盤以降、様々な真実が明らかになっていく場面も盛り上がりに欠ける。全体的に起伏が少なく、ストイックすぎるのかもしれない。また、主人公とクレアの恋愛が物語において大きな意味を持つにも関わらず、淡白な描写が多く、色気に欠けるのもあまりよくない。そう、全体的に色っぽさが足りないのだ。ジェレミー・レナーばかりがその役割を担っていて、肝心の主人公とクレアの関係が薄味なのである。

役者陣は、主演のベン・アフレックに若干の固さが見られる(本当に口が気になる)ものの、みな渋く味があっていい顔をしている。なんといっても特筆すべきは、主人公の親友役、ジェレミー・レナーだろう。凶悪だが義理がたい男の表情に宿る色気。彼は本当によく撮られていて、ベン・アフレックからの愛すら感じる。それにしてもまさか彼の警官コスプレが見られるとはね……!

花屋の親父役、ピート・ポスルスウェイトはこれが遺作。明らかに痩せ細っていて痛々しくもあるのだが、極悪な役を凄みを持って演じていて、本当にいい仕事をしている。ワンシーンだけ登場のクリス・クーパーも目力が強く印象的だし、花屋の親父の傍らで主人公を睨み付けるお仕事のラスティ役の俳優さんもわるーい顔をしていて素晴らしい。そうそう、FBI捜査官役、ジョン・ハムのねちっこくていやらしそうなかんじもよかった。レベッカ・ホールはヒロインとしては少々地味かもと思ったのだが、実際観てみると凛としつつも線の細い彼女が適役だったと思うし、ベン・アフレックとのバランスを考えてもちょうどいい。

人生を変えようと思ったら、とにかくまずはあがいてみなければ始まらない。あがいてあがいて、そこで何が見えてくるかは、そのときになってみるまでわからないだろう。少なくとも、犠牲は伴う。それも大きな犠牲を。本作の場合、ラストはロマンティシズムに振りきれるので、そのあたりに甘さを感じたり、不満を抱く人もいるだろう。個人的には、この最後に見せる繊細さはなかなか好みだったりする。ジョン・ハムの印象的なセリフ、「アメリカ全土がFBIに監視されている」がロマンチックなラストに苦味を与えてくれているようにも思えていい。

最後に、私の少ない観賞アーカイブの中から本作と比較したくなった作品を引っ張り出してみると、「3時10分、決断のとき」と「25時」が挙げられるかなと思う。終盤の銃撃戦、特にジェレミー・レナーの奮闘っぷりには「3時10分〜」に近い切なさとかっこよさを、ラストには「25時」と同じナイーブなロマンティシズムを感じた。どの作品も、アメリカを描いたクライム・ムービーである。「ザ・タウン」はこれまで綿々と紡がれてきたアメリカン・クライム・ムービーの系譜を継ぐ作品であり、ベン・アフレックはこれから王道のアメリカ映画を撮る代表的な監督になるかもしれない。固さがとれ、彼らしい「ほつれ」がいい味を出し始めれば、近いうちに素晴らしい作品を観ることができるだろう。その前に、私は「ゴーン・ベイビー・ゴーン」を観なくては。